頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第38回「列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国」 (歴史文化ライブラリー)」(吉川弘文館)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー38

列島を翔ける平安武士: 九州・京都・東国 (歴史文化ライブラリー) 「列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国」
(野口実、吉川弘文館)

 本書は、第30回でご紹介したものと同じ著者によるものです。第30回では武門源氏(清和源氏)の全国展開を紹介しましたが、本書は源氏ではなく平氏の活躍について述べています。書名の通りですが、主に九州での活躍に焦点があてられています。
 平将門の乱鎮定に活躍した平貞盛等桓武平氏は、都の武者として権門貴族の傭兵隊長として活躍しますが、同時に武力を期待される、辺境に赴く受領の郎党として採用される機会が多かったといいます。
 特に刀伊の入寇の際に活躍した武力として平氏が多かったようです。このうち、平貞盛の弟繁盛の孫為賢の子孫が勝ち残っていきます。為賢の子孫を「鎮西平氏」と呼ぶようです。
 鎮西平氏は肥前国から薩摩国へ進出し、平(阿多)忠景の頃には、南九州に大きな力を持つようになります。
 南九州とは、薩摩・大隅・日向の3国のことですが、本書からその歴史について要約してみましょう。
南九州といえば、「熊襲」を思い浮かべますが、4世紀頃には大和政権に服属したようです。彼らは「隼人」と呼ばれて、天皇の行幸の際、国境で犬吠をさせられるという差別的な状況におかれたため、度々(大宝2年、和銅6年、養老4年など)反乱を起こしています。
 そのため、班田が実施できたのは、延暦12年になってからでした。その後、南九州も内国化が進み、平安中期頃になると、太宰府官人の進出が見られるようになります。南九州は、特に太宰府を通じて京に繋がっていたからです。
 刀伊の入寇に活躍した平為賢(太宰大監)の一族平季基は、肥前国を本拠として、日向国都城周辺を万寿年間(1024~28)に関白藤原頼道へ寄進して島津荘を開きます。これが、後に大隅・薩摩にもまたがる大荘園へと発展していくこととなります。
 平季基の子孫は、薩摩地方の各地に武士団として展開し、院司・郡司として成長しますが、中でも平忠景は、12世紀半ば頃、阿多郡司職を基盤に「一国惣領」を成し遂げ、大隅にも勢力を広げます。薩摩平氏の棟梁となり、阿多権守忠景と名乗ります。
 忠景は鎮西八郎為朝を婿として勢威を誇りますが、為朝が保元の乱に敗れると、勅勘を蒙って平家(平清盛)の有力家人筑後守平家貞の追討を受けて南島に逃れます。
 しかしながら、河辺・鹿児島・谷山・指宿氏等はその後も在地に大きな影響力を保っていきます。彼らを「薩摩平氏」といいます。
 鎌倉時代になって、島津氏が薩・隅・日三国の守護に任じられ、多くの東国御家人が所領・所織を与えられて移住してきます。彼らは薩摩平氏等と姻戚を繰り返し、地元に根付いていきます。
 13世紀半ばに入来院(薩摩川内市)の地頭に補された相模の御家人渋谷氏は、上層農民を伴って入部したようです。
 やがて、幾多の抗争の中、西遷御家人、旧勢力の統合に成功した島津氏が、南九州を統一していくこととなります。その後の歴史は周知の通りです。
 著者は、「中世は一面、統一的な権力から地方が解放された時代であり、その『自由』の中で薩摩半島。大隅半島の海商・海民の東アジア世界を舞台とした活動は顕著なものがみられた」といい、彼らこそ中世の環シナ海の海寇世界の主役であり、国境や民族にかかわりなく東シナ海を舞台に「グローバルな活動を展開した」と述べます。
 そして、「坊津・山川・志布志など、中世の港津の考古学的調査がそれを裏付ける日も遠くあるまい」と期待しています。
 南九州の自由闊達な歴史に触れて、より豊かな海の歴史が解明されることを願ってやみません。

 近年、歴史学、特に中世の解明は、従来の歴史像の大幅な変更を迫っています。残念ながら創作が追いついていない状況です。そのため、今回も紹介する小説はありません。
 かつて、司馬遼太郎がリードした歴史小説が面白い時代がありました。グローバルな視点によるユニークな中世を舞台とした歴史小説を渇望しているのは私だけでしょうか。

 

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