頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第37回「戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む」 (講談社選書メチエ)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー37

戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む (講談社選書メチエ) 「戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む」
(上田信、講談社選書メチエ)

 下記の年表は、35回のときのものにいくつか足したものです。
 1334 建武の新政
 1338 足利尊氏征夷大将軍となる。(室町幕府の始まり。)
 1350 倭寇の始まり(~前期倭寇『高麗史』(前期倭寇)
 1368 元朝倒れ、朱元璋(洪武帝)明朝を興す。
 1369 懐良親王、日本国王に冊封される。(「日本国王良懐」、洪武帝)
 1392 李成桂の朝鮮建国。南北朝の合一。
 1401 足利義満、日本国王に冊封される。(建文帝)
 1402 靖難の変(勝利した永楽帝の統治(~24))
 1404 勘合貿易の開始
 1405 鄭和の南海遠征(~33)
 1419 応永の外寇
 1429 琉球の三山統一
 1467 応仁の乱(~1478)
 (1492 コロンブス、北米を発見)
 1523 寧波の乱
 1533 石見銀山発見
 1543 ポルトガル人種子島に鉄砲を伝える
 1550頃~1560頃 嘉靖大倭寇(後期倭寇)
 1556 鄭舜功日本へ赴く
 1557 鄭舜功中国へ帰る

 およそ250年の間に、日本は東アジアばかりでなく、西欧との出会いもあり、急速に世界が広がっていきます。
 中国の明は、朝貢貿易体制のため海禁政策をとってきました。そのため、外国と交易をしようとすると必然的に密貿易とならざるをえず、取り締まりの対象となりました。
 しかしながら、世界史的に見ると海を舞台にした交易の時代、つまり大航海時代に突入していたのです。
 ここに後期倭寇が発生する背景があるのです。
 寧波の乱(1523)を契機に日中の朝貢貿易は停滞します。しかしながら、銀貨を中心とする中国は、日本の銀に頼らざるを得ませんでした。そのため、朝貢貿易に替わって密貿易が盛んとなり、そこから王直、徐海という人物が現れます。
 特に徐海は、九州南部の日本人を仲間に加えて江南地方を荒らし回るなど一大勢力へと発展します。
 徐海の集団だけでなく、他にも略奪を行う集団はあり、彼らを「倭寇」と呼んで明は取り締まりを強化しますが、上手くいきません。
 ちょうど、明では世宗嘉靖帝の時代(1521~1567)にあたるため、嘉靖大倭寇と呼びます。後期倭寇の最も甚だしかった頃です。
 明では、倭寇の鎮圧へ向けて様々な提言がなされました。鄭舜功という人物もその一人です。鄭成功ではありません。念のため……。
 それはさておき、鄭舜功は、倭寇を鎮めるためには、日本のことをよく知らねばならない、という信念のもと日本へ渡ります。
 半年ほど日本、主に豊後国に滞在した鄭舜功は、明へ帰りますが、投獄されてしまいます。7年という長さでした。その間に鄭舜功は、『日本一鑑』という書を書き上げます。これは、鄭舜功が観た日本の「光景、聴いた言葉、交わった人々、そして考えぬいた事柄などを後世に伝え、役立てられることを願って」著したものです。
 鄭舜功は、当時の明人が倭寇というイメージから思い描いていた、「野蛮な人たち」というステレオタイプな日本人像ではなく、「中国人からすると凶暴ではあるが、その立ち居振る舞いには秩序がある」というもので、「そこに日中の国交を正常化させる可能性を見出し」ていたのです。
 本書は、そんな鄭舜功と『日本一鑑』の紹介とそこから浮き上がる戦国日本の実像を追ったものです。
 そこにはイエズス会宣教師たちが残した、ヨーロッパから見た日本とは、また違った外国人の見た日本が描かれているようです。
 本書では、明から日本への航海ルートも詳しく述べられており、戦国日本の東シナ海を舞台とした海の歴史に思いを馳せることができます。
 それは、本書の主張する「応仁の乱から関ヶ原の合戦へという『陸の物語』ではなく、実は日本からの銀の輸出と海外からの硝石・鉛の輸入を主軸とする『海の物語』であったというイメージが、新たに像を結んでくるだろう」ということでもあります。
 四方を海に囲まれた海洋国日本。そのことを改めて考えさせてくれる刺激的な本です。

 最後に本書の構成は以下のようになっています。

 目次
 はじめに─―忘れられた訪日ルポには何が書かれているのか
 序 章 中世の日本を俯瞰する
 第1章 荒ぶる渡海者
 第2章 明の侠士、海を渡る
 第3章 凶暴なるも秩序あり
 第4章 海商と海賊たちの航路
 終 章 海に終わる戦国時代
 あとがき

 そろそろ「倭寇」という言葉を使うのは止めた方が良いと思っています。最近は「元寇」を「蒙古襲来」と呼ぶようになるなど、「寇」の字を避ける傾向があるように思うからです。ちなみに、「蒙古襲来」は、正確には「蒙古・高麗襲来」ではないでしょうか。
 同時に倭寇は、倭人だけでなく、中国人や高麗(朝鮮)人も混じっていたといいます。少なくとも後期倭寇を指揮していたのは、中国人王直、徐海などです。
 あるいは、辺境の人たちに明確な国の意識などなかったともいわれています。「倭寇」という言葉自体、当時の日本の文献では使用されていないようです。中国や高麗・朝鮮で使っていた言葉のようです。
 とはいえ、他に適切な言葉も見あたらないほど浸透している現状では、難しいことなのかもしれません。私も上記で多用しています。
 そうしたことをつらつら考えながら、今回も小説の紹介は省略させていただきます。

 

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