雨宮由希夫

書評『梅と水仙』

書 名   『梅と水仙
著 者   植松三十里
発行所   PHP研究所
発行年月日 2020年1月14日
定 価    ¥1800E

 

梅と水仙

梅と水仙

 

 

 維新直後の明治4年(1871)11月12日、横浜から出発した岩倉遣外使節団一行の中に、のちに女子英学塾(津田塾大学の前身)を創立することになる最年少(満年齢で6歳と11カ月)の津田梅子(つだうめこ)をはじめとする10歳前後の5人の少女たち――永井繁子(しげこ)、上田悌子(ていこ)、吉益(よします)亮子(りょうこ)、山川捨松(すてまつ)――がいた。廃藩置県が断行され、幕藩体制が完全に消滅したのはこの年の夏ことである。未だ国家のあるべき姿も描けない時期に、この蛮勇ともいうべき官費による10年間のアメリカ留学計画がいかなる背景と意図のもとになされたのか謎が多い。彼女たちは北海道開拓使が募集し、派遣した官費留学生で、アメリカ人の家庭に引き取られて勉学し、それぞれの道を歩んだ。

 彼女たちにはもう一つの共通点があった。全員が戊辰戦争で賊軍とされた幕臣や佐幕藩家臣の子女であったということである。
 梅子の父津田仙(つだせん)は、もともとは下総佐倉藩の出身で、生まれながらの幕臣ではない。元幕臣にとって生きにくい時代に、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となる。北海道開拓使次官の黒田清隆が企画した女子留学生の募集を知った仙は梅子を応募させた。黒田によるこの女子留学生募集の呼びかけには応募する者は皆無で、再度の募集によってようやく5人の少女が集まった。

 この件を読む我々は、植松三十里の別の歴史小説『繭と絆 富岡製糸場ものがたり』(文藝春秋 2015年8月刊)を想起するであろう。明治5年(1872)10月、富岡製糸場は工女募集の当てが外れて開業が危ぶまれていた。応じる者が少ないので、富岡製糸場の初代場長(所長)尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)はやむなく我が子14歳の長女勇(ゆう)を入場(入所)させた。健気な娘勇は「父のため国のため」、婚約を棚上げにして富岡に赴き、日本の工女第一号となった。

 “富岡”にせよ“札幌”にせよ、応募は彼女たちの意志ではなく、その親たちの思いのこもった決断であった。ここに、「脱亜入欧」を掲げ、欧米列強に追いつくべく、富国強兵への道を懸命に模索し、近代化を進めていた当時の日本の焦りと熱気を読み取ることができよう。
 開拓使留学生では、「幼い子供までアメリカに送り出した」、と親を詰るものも現れたが、仙は日本初の女子留学生という栄誉を何としても梅子に与えたいとの一心で幼き我が子を推し、それに応じて梅子は「大好きな父のためにアメリカに行く」と心に決めた。

 仙は明治維新の前年の慶応3年(1867)1月、軍艦ストーンウォール号(和名「甲鉄」)の購入のため幕府が送った使節団の随員として渡米、通詞仲間には福沢諭吉がいた。また、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会には大隈重信に採用されて渡欧して和風の建築と庭園をもうけることに寄与し、明治9年(1876)には札幌農学校より半年早く開校された農学社農学校を設立した近代農学の先駆者である。こうした父親の進取に富んだ生きざまが梅子の職業の選択に止まらず梅子の生き方に大きな影響を与えたことは固くない。

 物語のスタートは、梅子が元治元年(1864)師走3日、津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれるシーンである。また女の子かと失望した仙は、赤子の顔も見ず家を飛び出し、幕府派遣の公式通詞として通っていたアメリカ公使館のある麻生善福寺に泊まり込み、十日も帰宅しない。仙はどうしても男子がほしかった。懸命に手を入れた通詞の役目は女では引き継げないからである……。
 捨松と梅子の二人が再び日本の地を踏んだのは出発から11年目、明治15年(1882)11月21日のことで、梅子は満17歳11カ月になっている。
 横浜港で日本語を忘れてしまった梅子が「父上!」と叫ぶシーンは感動的である。が、人格形成の青春期をアメリカで過ごし、異国の地にあってなお日本人のアイデンティティを持ち続けて、言葉のわからない母国に帰ってきた彼女たちの行く手には厳しい現実が立ちはだかっていた。

 帰国の翌年の明治16年(1883)11月には鹿鳴館が完成。極端な欧化政策の鹿鳴館時代の到来である。11月3日、外務卿官邸で開かれた天皇誕生日を祝賀する夜会に招待された梅子は、伊藤博文と11年ぶりに再会。かつて伊藤は岩倉遣外使節団の四人の副使の一人として、5人の少女たちと共に太平洋郵船「アメリカ号」の洋上にあった。
 お国のために学問をおさめて帰国したにもかかわらず、政府・国家は無策で何の用意もない。しかるべき仕事が見つからないことで失望と挫折の日々を送っていた梅子にとって、明治政府の中枢の地位にあった伊藤との再会は「ひとつの扉」が開いたようなものであり、意外な展開のはじまりであった。伊藤の紹介で、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子の知遇を受けることになるのもまた「ひとつの扉」であった。
 伊藤博文は明治の日本を具現する人物の一人である。廃藩置県華族制度の新設、大日本帝国憲法の制定、日清日露の戦争の遂行など日本の社会そのものを根底から変える重要な局面を指導し、ハルビン駅頭で劇的な最期を遂げる伊藤の生涯は、まさに近代日本の歩みを示すものである。功名心や自慢心に富む人間、女色を漁った人物とする評価がある伊藤について、伊藤家に家庭教師として住み込むことになる梅子に、仙が、「女癖の悪ささえなければ、立派な人物だ」と諭すシーンは面白い。後日、梅子は朝帰りする伊藤の生々しい醜態を見てしまい、事実だったのかと愕然とする。
 伊藤博文と共に勝海舟の造形も本書の読みどころである。赤坂氷川町四番地に住み、明治政府とはある距離を持ちながら国家の在り方を思いめぐらす海舟は、俗事を達観する思いで、津田仙ら旧幕臣たちの生活面の面倒を見、梅子の女子英学塾開校の前年の明治32年(1899)1月、77歳で没している。

 明治15年11月8日 姉のように慕っていた山川捨松が、帰国してその一年後に陸軍卿大山巌(おおやまいわお)と結婚する。捨松の結婚は二つの違う文化と習慣の間(はざま)で自身の生き方に迷っていた梅子に大きな衝撃と影響を与える。明治の日本は逃げ場のない「国民皆婚」の社会で、特に女性には結婚しか生活の手段がなかった。

 会津藩家老の家に生まれた捨松はアメリカにいる頃より、いつか自分たちの学校を創ろうと梅子と誓い合っていた。日本で学校を創ることが二人の留学時代の夢だった。「鹿鳴館の花」と謳われ、積極的に鹿鳴館外交に協力した捨松は、国家への奉仕としての仕事と結婚の間で揺れ動き悩み、ついには、戊辰戦争で「西軍」の将の一人であった大山巌を伴侶とすることを選択する。それは自らの生涯の運命への決断であったと言わざるを得ない。が、それでも捨松の女子教育にかける熱意は冷めることなく、明治33年(1900)に梅子が女子英学塾を設立することになると、伯爵夫人という社会的地位を十二分に活用し、塾をささえ、終生、塾の発展に尽くした。
 病のために一年で帰国した上田悌子、吉益亮子の二人について伝えるものが少ないといわれるが、本書には、明治19年(1886)秋、銀座の煉瓦街に「女子英学教授所」という私塾を立ち上げた留学生仲間の吉益亮子を、梅子らが駆け付け励ますシーンがある。このシーンは圧巻で涙を禁じ得ない。
「冬枯れの中で真っ先に咲く梅の花の健気(けなげ)さ」で、日本の「女子教育」の先駆者となった津田梅子の生涯を、内外の津田梅子研究の成果を踏まえ、その軌跡を「寒い時にほかの花よりも先に咲く水仙」のような父仙との愛憎・確執、大山捨松ら友人との交遊の中に描いたものである。背景となった時代の息吹と共に、梅子の素顔を思い浮かべることができる歴史小説の佳品である。
            (令和2年1月22日  雨宮由希夫 記)

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