雨宮由希夫

書評『桔梗の旗 明智光秀と光慶』

書名『桔梗の旗 明智光秀と光慶』
著者 谷津矢車
発売 潮出版社
発行年月日  2019年12月5日
定価  ¥1500E

 

桔梗の旗 明智光秀と光慶

桔梗の旗 明智光秀と光慶

  • 作者:谷津 矢車
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 2019/12/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 明智光秀には細川(ほそかわ)忠興(ただおき)の妻として有名な玉(たま)(洗礼名ガラシャ)の他数人の子、一説には3男3女がいたという。谷津矢車の歴史小説『桔梗の旗』は光秀の嫡男十五郎光慶(みつよし)と女婿明智左馬助秀満(ひでみつ)を主人公とし、光秀の二人の息子の眼で眺めた光秀その人と本能寺の変の謎に迫っている。
 ほとんど史料の類が残っていない十五郎光慶は光秀の友人でもあり師匠でもある信長の茶頭・津田宗及(つだそうきゅう)と当代一の連歌師・里村(さとむら)紹巴(じょうは)の二人を師として、茶道や連歌に邁進するが、武芸一般を不得手とする若者として造形されている。
 琵琶湖湖水渡りの伝説で有名な明智左馬助秀満は、山崎の戦いの後、坂本城で光秀の一族を刺殺したうえで自害した人物であるが、本作では十五郎を「若様」と呼ぶ左馬助は、十五郎から見れば、〈明智家臣に迎え入れられ、十五郎の姉亀(かめ)を妻に迎えたことで、元の名字を捨て、明智左馬助と名乗る義理の一族〉である。

 物語のスタートは天正8年(1580)正月 11歳で元服した十五郎が元服披露のため、安土城に登城するも、御目見得はかなわない。一方、義兄の忠興は信長に気に入れられ、何度も拝謁がゆるされている。信長が十五郎を嫌っているらしいという噂は織田家中に公然とささやかれていた……。信長が光秀の嫡男を認めないことが物語の核となっていることが注目される。

 光秀謀叛の理由は古くより諸説があるものの今でも定説をみないが、本作の作家は、まず謀叛の当事者である光秀がその日を迎えるまで、どのような状況に身を置いていたか、それを手掛かりに原因、動機なりを突き止めようとしている。
 時代背景を天正8年(1580)から天正10年(1582)までの2年間に定め、二人の息子を≪語り部≫とし、光秀の運命を左右するのに大きく関わった細川(ほそかわ)藤孝(ふじたか)、里村紹巴、筒井順慶(つついじゅんけい)らを限られた歴史空間の中に登場させている小説作風は非凡である。後世の人である私たちは、彼らが変の以後、いかに身を処したかを知っているが故に、「戦国無情の世界」に自ずと誘われるを禁じ得ない。それらを的確に描き切る筆の冴えとともに、この若き作家の透徹した歴史認識と史実を切り取る視点には恐れ入る。

 里村紹巴は本能寺の変の3日前の5月28日京都の愛宕神社で光秀が催した連歌会「愛宕百韻」に出席した。発句「時は今 雨が下しる 五月哉」を光秀は〈何の気なしに詠んだ……〉と語り出す。この件の意味するところは深い。「愛宕百韻」に参加した十五郎は、光秀は〈直前まで幽鬼のようだったが、百韻を終えた後は満面の笑みをたたえていた〉と証言し、〈やはり、父はおかしい〉と見る。 
 長岡藤(ながおかふじ)孝(たか)(のちの細川幽斎(ゆうさい))は、丹波攻めで明智家の与力(よりき)に組み入れられた。越前以来の盟友である二人の地位が逆転したのはこの時である。このことに〈元を糾せば名族管領細川家の一員〉である藤孝がいかなる思いを抱いていたか。藤孝の嫡男の与一郎忠興を含めての3人の微妙な関係が細川父子の怪物ぶり、冷酷さとともに彫り深く表現されている。

 大和(やまと)国守の筒井順慶(つついじゅんけい)は正式に信長に帰参した時期が遅い。それゆえに順慶は織田家の出頭人のひとりである光秀の血縁に連なるべく、光秀の次男自然(じねん)9歳を養子にと切望した。この辺の機微が11歳の十五郎には判ろうはずもない……。

 細川・筒井の離反は光秀にとって想定外の事態の出来で、生涯の大誤算である。彼らは光秀の血縁に連なる者として謀叛に加担することを恐れたのである。 
 十五郎は丹後亀山城にて、父の謀叛を知る。息子の十五郎にさえ逆心があることを打ち明けていなかった。物語の前半部では、≪語り部≫の十五郎は父光秀の心情も理解できず、「なぜ? なぜ? なぜ?」と叫ぶところで終わっている。 

 後半部は、もう一人の≪語り部≫左馬助が語りだす。「殿が謀叛をご決心なされたのは、ごくごく最近のこと。されど、随分前から謀叛への道筋ができていた」と。
 天正9年(1581)2月28日 京都で信長軍団の軍事パレードともいうべき馬揃い(うまぞろい)が挙行される。禁裏(きんり)の馬揃いを〈明智の跡継ぎここにあり、と十五郎を披露する明智の晴れの舞台にせん〉と息子の前で意気込む光秀がいる。一方、信長の面前では慄く光秀の様子が描かれる。一人で馬揃い奉行を厳命され恐懼する光秀に、「独力でできぬなら、今すぐ禄を捨てよ。どこぞなりとも行くがよい」と言い放つ信長の怜悧な眼だけが光秀を射すくめている。信長は織田家の宿老ともいうべき譜代の重臣でさえも、落ち度があれば容赦なく追放する。〈「失敗すれば、首が飛ぶ」と、その光秀の言葉には、驚くほどに深い懊悩がこびりついていた〉と左馬助は証言している。

 光秀に謀叛を決意させたのは、天正10年(1582)4月の武田氏の滅亡に関わる諸事であったのであろう。信長はこの年、甲斐の武田を滅ぼして、これで自分の天下は定まったと、増長したのだろう、驕りに満ちた信長の心情の変化を冷静に読みとく光秀に向けて、信長は、「日向、これより貴様は毛利討伐に向かってもらうぞ」と言い放つ。途中で家康の饗応役を外され、熾烈な出世争いをしているライバル秀吉の翼下で働くことになって、光秀は〈ようやく、信長という男のことが呑み込めた気がした。信長は己の覇道の役に立つ者だけを欲しているだけだ〉と。さらに、信長の甲高い声は続く。「十五郎に明智、そして惟(これ)任(とう)の家督は継がせぬ」と。〈光秀の目が、白刃が閃くように光った〉。光秀の心に、この時まで「謀叛」の文字はない。〈暗澹たる将来を明るくするためには、信長を消し去るほかに、手がなかった〉。
「天下一の饗応」を目指すべく奔走するも饗応役を外された直後の光秀を、〈ただ事ではない。目の前にいる父親はこれまでにないほどに打ちひしがれている。途中で饗応役を外されたことが堪えたのだろうか>と十五郎は見ている。一方、左馬助は、安土で「解任」の後、見せしめともいえる配置転換の厳しい命令を仄聞したとき、〈自身の背中に冷たいものが走ったのを覚えている〉。

 信長の光秀へ信頼が減る一方、四国の長宗我部征伐を巡って、出世競争のライバル秀吉の株が上がっていく。天正8年、10年に及んだ石山本願寺との戦いが終焉するや、信長の四国政策は大きく転換。長宗我部元親との和平交渉にあたるべく奔走した光秀は結局、信長の違約によって面目を失墜する。

 天正9年8月 「妻木殿」の死。信長の側室となり光秀と信長をつないだ「妹」の死も変勃発の誘因の一つであると作家は観ている。史料では実妹なのか義妹なのかわかっていないが、本作では義妹としている。〈もはや、明智家をめぐる状況は八方ふさがりで、風前の灯火だった。博打に出るほかなし〉。

 明智の家臣として生き、明智家の家臣として死ぬ覚悟の左馬助は光秀の人となりを〈元は美濃の名族土岐氏の末で、落魄した一族を盛り立てるために浪々の日々を送り、今や近畿一帯を取り仕切る立場となった苦労人。この地位をいかに子に譲るかが最後の関心事なのかもしれない〉と観ている。そして、〈光秀という男は、明智家がすべてだった〉と結論づけている。これは作家自身の結論でもあるだろう。
 だが、十五郎自身は、〈十五郎のために父が反旗を翻したなどと到底信じられるものではなかった〉。その十五郎に、左馬助は告げる。「桔梗の旗を振るのは、桔梗の人である若様だけでござる」と。本書の書名の由来はここにある。

 最後に、作家が本作で本能寺の変についての新釈を行っていることを述べなければならない。信長は武田攻めの際に、「貴様に明智家督を与えよう」と左馬助を誘っていたとするのである。信長像の変化に相まって、本能寺の変の原因も多様化しているが、本作は、明智家の家督継承までに介入し専断する信長を描くことにより、光秀謀叛の真実に迫っている佳品である。
              (令和元年12月31日  雨宮由希夫 記)