雨宮由希夫

書評『葵のしずく』

書名『葵のしずく』
著者 奥山景布子
発売 文藝春秋
発行日 2022年10月10日
定価  本体1700円(税別)

 

 

 幕末維新に翻弄された悲運の美濃高須(みのたかす)松平家(まつだいらけ)四兄弟を支えた女性たちが主人公の本書は『葵の残葉』、『流転の中将』に続く高須四兄弟シリーズの第3弾目である。「序 金鯱哀話」では尾張徳川家のシンボルたる金の鯱の流浪の旅が織り込まれ、以下、「太郎庵より」「二本松の姫君」「絃の便り」「倫敦土産」「禹王の松茸」の短編5編が描かれている。拙評では特に桑名(くわな)松平家を継いで京都所司代となる定敬(さだあき)の姉幸姫(よしひめ)がヒロインの「倫敦土産」をとりあげたい。

 物語は明治15年(1882)4月11日。松平定敬と上杉茂憲(もちのり)の二人が東京上野不忍池弁天島南岸の料理屋・長蛇亭で会うシーンからスタートする。茂憲の正室の幸姫は定敬の実の姉で茂憲は定敬の義兄にあたるが、思えば不思議な縁といえる。幕末維新史は骨肉相食む形で奔流の如く動く。京都守護職京都所司代として共に京都の治安維持に専心したこともあって、定敬は四兄弟の中で最も年の近い容保(かたもり)のことを一番に慕っていた。明治の世になって、定敬にとって茂憲が今では実兄容保に次いで心許せる人となっていたのであった。
 この日、茂憲は幸姫が生涯手元に置いていたという二葉の写真を持参してきた。明治初年の撮影であろう茂憲幸姫夫妻が写っているものと、京都時代の定敬と茂憲が居並ぶ写真である。
 安政6年(1859)14歳の定敬が養子にいくまで、江戸の高須藩邸でともに過ごした幸姫。一つ違いでしかも母も同じ姉の幸姫は定敬にとって思い出を共有する大好きな姉であった。
伊勢国桑名藩主で京都所司代の重責にあった定敬(さだあき)が義兄茂憲と初めて会ったのは慶応2年(1866) 春、京洛の地である。茂憲は前年の暮れ、京の警護を命じられて出羽米沢から上洛してきたのであった。
 慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発。幕府軍は惨敗し、1月6日、大坂へ退いていた「最後の将軍」徳川慶喜(よしのぶ)が戦線離脱し、定敬は兄の容保や老中の板倉(いたくら)勝静(かつきよ)らと共に大坂城を脱出、幕府軍艦開陽丸で江戸へ下る。慶喜は高須四兄弟にとって従兄弟に当たるが、総大将の敵前逃亡で定敬と容保は「朝敵」とされ、二人の果てしない流浪の旅がはじまる。

 東北戊辰戦争――。8月23日は西軍がついに会津若松城下に侵入、容保が籠城を決意した日。定敬は容保と共に入城することを願うも、容保は外からの援軍をもって会津を助けてほしいと要望。涙を払った馬上の定敬は僅かの供を連れて義兄茂憲を頼って米沢へと向かう。
 茂憲の父斉憲が藩主の出羽米沢18万石は仙台藩と共にいわゆる奥羽越(おううえつ)列藩(れっぱん)同盟(どうめい)の盟主であったが、定敬を出迎えた米沢藩重臣の態度は冷淡で、米沢藩世子の茂憲と会っての会津藩援軍要請の話し合いを申し込むも、茂憲は病と称して会わせない。姉・幸姫との面会も拒絶される。この時すでに、米沢藩は奥羽、越後の大勢を見てとって藩論を恭順と決定していたのである。8月27日、「上杉の裏切り」を知った定敬は孤影悄然、追われるように米沢城下を立ち去る。この直後、恭順したばかりの茂憲は会津攻めの先鋒として駆り出される。
 こうした事情を幸姫が知るに至るのは半年後の明治2年3月。「いつまでも隠しておけぬ」と言う夫茂憲の口からである。「かような残酷なめぐりあわせがあるものか」と嘆く夫に対し、妻の幸姫は夫の苦悩の深さを知り、何も知らずにいた己の愚かさを自虐する。
 幸姫は世の中が変わったことをはっきりと思い知らされたが、この数年での世情の移り変わりは幸姫にとってどう受け止めてよいかわからぬことばかりであった。  
 幕府の要請で京都守護職を奉ずるはめになり挙句の果てに賊の汚名を着る会津中将松平容保会津の落城、東京への護送、処分を待ちながら謹慎する兄容保。同様に「朝敵」となり、北越会津、米沢、仙台、函館とラスト・サムライの意地で転戦、流浪、路頭に迷いつつ、行方知らずとなっている弟定敬。二人の兄弟を思いつつ、幸姫は「兄も弟も宿命としか……。それぞれに誇りを失っていない……。どうか、葵に連なる者として誇りを……」と念じつつ、夫と弟〈鍥之(けいの)助(すけ)どの〉が仲睦まじげに居並ぶ写真に見入る。
 尾張徳川家の分家である美濃(みの)高須(たかす)松平家の第10代藩主松平義建(よしたつ)は子福者といわれ、男子を幾人も他家に養子に出しているが、その父はたった一人の娘・幸姫が文久2年(1862) 5月28日、米沢藩主上杉斉憲の長男茂憲へ嫁ぐに際しては「葵に連なる者として、常に婚家の上杉のためを考える正室になるように」と諭すのだった。
「葵に連なる者として誇り」は幸姫にとっても、最後の誇りであったのである。

 明治の世になっての、義兄弟・定敬と茂憲二人の再会――。
明治5年(1872)正月6日、定敬は特旨を以て永預を解かれようやく長い謹慎生活が終わるが、姉の幸姫はその年の7月17日、他界していた。
 菊葵――姉弟の生家、高須松平家の家紋入りの手文庫に収められた二葉の写真は幸姫の何よりの宝で、最後まで枕元に置いていたものと聞かされ定敬は「――姉上。せめて一目なりとも、お目にかかりとうございました」と涙す。読者も涙を禁じ得ない名シーンである。
 過ぎ去った日々、来し方を振り返り、世の変わりようへの怒りや鬱屈を共有していたことであろう。「貴公とかく親しき交わりとなろうとは」。二人は互いに恩讐を乗り越え、積年の澱を全て洗い流す。定敬と茂憲、ふたりの男の歩んできた人生の重み、そこから来る人間的な魅力があふれ出る一編となっている。

「絃の便り」は定敬が愛したおひさがヒロイン、「太郎庵より」「二本松の姫君」の二編は尾張藩にかかわる女性が、「禹王の松茸」は容保の母がヒロインである。
 御三家筆頭尾張徳川を継ぐべく慶勝(よしかつ)が婿入りした幕末の尾張藩には、維新前夜、14名の藩士を「朝命」の名のもと処刑した青松葉事件の悲劇がある。「太郎庵より」は明治新政府下の尾張藩士の北海道移住など尾張藩の苦難の歴史を史材とした作品である。
 源平には源平の、戦国には戦国の、幕末には幕末の、その時代でなければ、味わえないものがある。変革の時代には世を支配した流れ、時流の渦に消えていく独特の味がある。その味わえないものを映し出すために、歴史小説はあると言っても過言ではあるまい。『葵のしずく』の「しずく」とは葵に連なる者たちから流れいずる「誇り」の意味であろうか。葵に連なる者たちを物語のヒロインとして、維新の裏面に秘められた真実を浮かび上がらせる人間ドラマである本書はまごうかたなき〈幕末もの〉歴史小説の白眉である。

 美濃高須松平家のサーガというべき高須四兄弟シリーズを記述した作家奥山景布子は愛知県津島生まれ名古屋育ちの、いま最も注目されている作家の一人である。
                   (令和4年11月6日 雨宮由希夫 記)