雨宮由希夫

書評『武蔵 残日の剣』

書名『武蔵 残日の剣』               
著者 稲葉 稔
発売 角川書店
発行年月日  2022年8月26日
定価  ¥2000E

 

 

 六十余回戦って負けたことがない「古今無双の武芸者・剣豪」といわれる武蔵。武蔵は全国各地を転々としており、その兵法修業の足跡が全国各地に残っているが、出生地、生年ですら諸説入り乱れており、その真の姿は意外に知られていない。
 武蔵についてこれまで多くの小説が書かれてきた。吉川英治の『宮本武蔵』に代表されるように、幼年期から巌流島の決闘までを描く作品が圧倒的に多いが、稲葉稔の本作は武蔵の生涯を、本能寺の変の2年後の天正12年(1584)に生まれ、島原の乱の8年後の正保2年(1645)に死去したとして、特に晩年の武蔵を活写したものである。一乗下り松での吉岡一門や巌流島での佐々木小次郎との決闘などは晩年の武蔵の「回想」、あるいは「夢」という形式で作中に再現されている。

 有名な巌流島の決闘について――。そもそも、二人はいったいなんのために戦ったのか疑問が残る。「果し合い」「御前試合」「大名への仕官を目指したもの」とする説もあるが、本作の解釈はシンプルである。「巌流島」を「巌流小次郎(がんりゅうこじろう)との舟島(ふなしま)(巌流島)」とし、「己の剣こそ天下無双である」という自負がある武蔵は「天下一の兵法こそ巌流である」と喧伝する小次郎が許せず、小次郎を徴発、試合をけしかけたとする。武蔵は29歳と明記されるが、小次郎の年齢は不記。小次郎の姓は佐々木とされるのが一般的だが、佐々木という姓も記されず、「巌流(がんりゅう)小次郎(こじろう)」とある。
 実は、武蔵以上に小次郎は謎に包まれている人物であり、決闘当時、小次郎が何歳だったか、また、実名さえも定かではない。作家はこうした実情を踏まえ、俗説、異説を選り分け、踏み込んだ解釈のもと妥当と思しき仮説を積み上げて繋ぎ、書き上げていることが「舟(ふな)島(しま)の決闘」の描写だけでもわかる。

 ここで、武蔵の生涯に起きた歴史的事件と武蔵の年齢との関りを整理しておきたい。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い――。17歳の武蔵は西軍の宇喜多秀家(あるいは黒田長政とも)配下の足軽として参戦、西軍の敗北で命からがら戦場を脱した。 
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の大坂の夏の陣――。武蔵31から32歳にかけておこった戦乱において、風雲に乗じて一国一城の夢を抱いていたに違いない武蔵は大坂城の牢人募集に応じて入城したと設定することが多いが、一方、等しく「牢人」ではあるが、武蔵は豊臣方ではなく、徳川方の三河苅屋水野勝成(家康の従兄弟)の手勢に「牢人」として加わっていたとする説もある。
 慶長9年(1604)21歳の武蔵が吉岡清十郎を倒し、名声をとどろかすことになる吉岡一門との決闘、慶長17年(1612)の29歳時の「舟島」は関ヶ原の戦い大坂の陣の間のできごとである。

 物語のスタートは寛永15年(1638)の天草・島原の乱である。
すでに55歳の武蔵はこの時、中津藩小笠原信濃守長次の「軍監」として島原入りし長次の側にいた。長次の叔父の小倉藩主小笠原忠(ただ)真(ざね)の「客分」として仕えた武蔵は小笠原忠真の要請に応じた(12頁)。
 幾たびも死地を潜り抜けた武蔵は一揆勢の立て籠もる原城(はらじょう)を見つめて、「徳川の世になって、これがほんとうに最後の戦いかもしれぬ」と観る。
陸海両面から包囲し3カ月以上にわたり原城兵糧攻めする幕府軍(討伐軍)は総勢12万。徹底抗戦を厭わない2万数千人の籠城勢(一揆勢)に勝ち目はない。武蔵は一揆勢が帰伏することを願っていた。
 幕府軍による掃討戦。原城内の地獄絵図。胸の前で十字を切り、死を恐れることなく受け入れた女子供たち。「おのれは喜んで殺され死んでいく百姓や女子供たちに負けたのではないか……」。武蔵にとって天草・島原の乱は「天下一の武芸者だと自負して生きてきたおのれの生き方をあらためて考えるとき」(37頁)となったのである。
 寛永17年(1640)  武蔵57歳。島原の乱が終わり、武蔵は小倉に戻っている。小倉藩小笠原忠真の客分となって6年になるが、武蔵は忠真に召し抱かれることは望まなかった。青年時代には、大藩に破格の禄をもって召し抱えられたいという思いがあったが、「若いころの野望は消え失せていた」(43頁)。諸国を渡り歩いてきた武蔵にとって長すぎる逗留であった(48頁)。伊織を頼りその傍にいれば何の不自由のない余生を送れるはずだが、それでは己の信念が死ぬと考えた。武蔵はあくまでも武芸一辺倒の男。武芸者として生き抜くのだという意地があった。(74頁)
 この年、六十に近い老境の武蔵は肥後熊本54万石の細川家の当主・細川(ほそかわ)忠(ただ)利(とし)の招きで「客分」として迎えられる。客分とは主従関係を持つ「家臣」でないが、武蔵は藩の単なる剣術指南役ではなく藩政に関わる顧問役の立場で、最晩年の5年間を熊本で過ごすことになる。
 熊本藩細川家の当主の細川忠利は細川幽斎(ゆうさい)の孫、忠(ただ)興(おき)の子である。忠利は武蔵の養子伊織が国家老を務めている小倉藩小笠原忠真(家康の外孫)から「面白い男がいる」と聞かされる(64頁)

 武蔵の人脈というべきであろうか、細川・小笠原両大名家の繋がりが面白い。小笠原忠真の妹は細川忠利の妻であった。加えて、ここに、小倉藩細川家の重臣・長岡佐渡守興長(おきなが)が再登場する。父無二斎の門人で、島で小次郎との試合の仲介をなしてくれた興長が「自分を過剰とも思えるほどもてなしてくれた真意」ひいては「舟島」の隠された真相があきらかになる(139頁)
 忠利は柳生新陰流免許皆伝、剣の達人。将軍家兵法指南役・柳生宗矩より秘伝書『兵法家伝書』を授与されている。細川家にはすでに柳生新陰流の氏井弥四郎なる剣術指南役がいるが、武蔵の技に感服した忠利は自ら二天一流の稽古をするようになる。
 武蔵の晩年を描いた作品は加藤廣の『求天記 宮本武蔵正伝』(2010年)など他にもあるが、稲葉の独創は武蔵と藩主忠利との親密な交流を克明に描き、武蔵にとって「2歳年下の名君」である忠利は武蔵の人生において唯一「友」「心の友」と呼べる人だった(193頁) としていることである。

 武蔵が静かな余生に入ったかと思いきや、読みすすめる読者の前に、将軍家兵法指南役・柳生宗矩の子である柳生十兵衛が登場し、予想もしない展開となる(206頁)のは興趣深い。十兵衛は、細川家が天下の柳生新陰流から武蔵の二天一流に鞍替えしたことは柳生の恥であると受け止め、武蔵が書きあげようとしている兵法書は「まやかしの兵法書」であり、世に残すべき兵法書は柳生家の『兵法家伝書』と『月之妙』であると激高し、武蔵暗殺のための刺客を放つ(292頁)。
 本作はまた、熊本城の西方に在る谷尾崎村の百姓の娘・清(きよ)の物語でもある。
 細川藩は武蔵の熊本滞在中の居住地として、城下の近くの千葉城址の空き屋敷300坪を武蔵に与える。清は細川家の重臣浅山修理亮に奉公する屋敷女中であったが、
武蔵を世話する女手として、千葉城址の武蔵屋敷に出向く。武蔵との穏やかな交流を通じて、暗い過去を持つ清がやがて武蔵を「父様」とも慕うことになる。
 武蔵は「一生妻を娶らず、生涯女を知らず」とする俗説もある。また、晩年肥後熊本に滞在していた頃、子どもを作ったとも伝えられているが、清の物語は作家によるこころ和む武蔵と女の物語である。
 ここには吉川英治の『宮本武蔵』のような、「悟り」を開くべく禁欲的で刻苦奮闘する武蔵、孤高に生きた剣聖とされてきた武蔵ではなく、青年期には一国一城の主を夢見たが、晩年にはほほえましいまでに頑なにわが道を行くべく肥後熊本を安住の地、終の棲家とした武蔵、これまで他の作家誰もが書いていない武蔵がある。

 稲葉稔は武蔵ゆかりの熊本県宇城市豊野町の出身。1955年生まれ。「文庫書き下ろし時代小説シリーズ」の『隠密船頭』『浪人奉行』でなじみ深い作家であるが、時代小説と歴史小説の類まれなる「二刀流」の使い手であることを読者は思い知った。

 

                (令和4年10月7日  雨宮由希夫 記)