雨宮由希夫

書評『家康が最も恐れた男たち』

書名『家康が最も恐れた男たち』
著者名 吉川永青
発売 集英社
発行年月日  2022年10月25日
定価    本体840円(税別)

 

 家康には二つの像がある。狸親父のイメージの如く忍従の長い年月で培った老獪さを持つ稀代の策謀家としての像と、平和国家建設のために邁進する卓絶した国家経営者としての家康像である。いずれにせよ、戦乱の世に終止符を打った武将であることには相違ないが、本書を手にした読者の期待の一つは2022年度の日本歴史時代作家協会の作品賞を受賞した斯界のホープ・吉川永青(よしかわながはる)がいかなる家康像を造形するかにある。
 家康は『東照宮御遺訓』の中で、「人の一生とは、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし、急ぐべからず」と述べている。この「遺訓」は後世の創作という説もあるが、75歳の家康が自分の死を前にして、過去を回想しつつ「遺訓」を書き、側近の儒者林羅山(はやしらざん)を召して「遺訓」の真意を語る形式で物語は進行する。
 家康には「最も恐れた男たち」がいた。武田信玄に始まり、真田信繁に終わる八人の男たちで、彼らは家康の生涯の時系列に即して登場し、短編8編が構成されている。家康は彼らの何に恐れ、彼らから何を学んだのか。

 巻頭を飾る一篇は「武田信玄」――。元亀3年(1572)、時に家康30歳。信玄はすでに晩年で、その52歳の生涯の総仕上げとして上洛を目指す。家康は敢然として浜松城から打って出て、信玄の大軍と対決するも、信玄の思うがままに踊らされ、遠江の三方ヶ原で完膚なきまでの大敗を喫する。
 家康は信玄の「周到、慎重、大胆不敵、さらにその上を行く深慮遠謀」に息が詰まるほどの恐れを抱き、「大業を成すには、ことを急ぐべからず。周到に慎重に、幾重にも罠を張るべし」と悟る。作家は家康の「勝つべくして勝つ男」未来の天下人の基礎がここに形作られたとする。
織田信長」――。信長像は、中世的権威の破壊者としてみるもの、狂人じみた魔王であるとみるものと振幅が激しいが、作家は「家康は信長を永劫に満たされぬ望みを持て余し、胸中に毒を生んで怪物と化した男」と観る。
 家康は桶狭間の戦い後、今川氏を見限り、永禄5年(1562)信長と同盟する。時に家康(当時は元康)21歳、信長29歳。信長の同盟者として「天下布武」実現の先兵となって家康は戦うが、作家は、「家康は信長の力と鬼気に恐れをなし、何を求められても諾々と従う他になかった」と観る。信長との同盟は信長が死ぬまで続くが、武田氏滅亡後、「徳川は織田と対等の盟友ではなくなった」とも。かくして、信長の生涯を「他人から《認められること》で大業を成し、そして行き過ぎて身を滅ぼした」と締めくくる。信長の軛から解き放たれた家康が信長から学んだことは「常に上を見て、どれほどを得ても満ち足りず、なお多くを求めては、周りを引いては世を不幸にする」ことであり、かくて、家康は信長の手法とは違う地道なやり方で、国造りを目指すこととなる。

真田昌幸」――。信長の死。武田氏の故地甲州、信州には北条氏、上杉氏の強大な戦国武将が乱入した。武田の臣であった小領主の昌幸は武田氏の滅亡後、北条、織田、徳川、上杉と目まぐるしく主君を変えざるをえなかった。昌幸は家康が天下を睨んでいることを承知しながら、北条との諍いを起こして家康の足元を危うくした」。昌幸は上杉氏と結ぶことで家康を袖にする。 

 家康は、信玄に「才気絶倫」と称賛され、秀吉より「表裏比興の者」と評された男・真田昌幸の「寒気を覚えさせる眼光」と「人としての素直な情け」、この二つがどうしてもかみ合わないことに身震いするとともに激怒する。
惨敗を喫した第一次上田合戦で、家康が学んだことは、「怒りは万事に於いて人の敵。堪忍ならぬ話も曲げて堪忍する。そうやって心を平静に保てば、自ずと道は拓けよう」(150頁)ことであった。

豊臣秀吉」――。家康が甲信の経営を進めているうちに、秀吉は驚くべき速さで天下人への道を駆けあがっていた。天正12年(1584)の小牧(こまき)長久手(ながくて)の戦いは秀吉と家康43歳が激突した最初にして最後の戦いであるが、秀吉は翌年には人臣最高の位である関白の座に就き、翌々年には朝廷より豊臣姓を下賜されている。信長亡き後のわずか3年余のことである。「家康は秀吉の力を見くびっていたと反省。あやつは既に信長殿の残した力を握っておる」。
 天下統一を果たした秀吉は、やがて、破天荒なまでに栄耀栄華に耽り、晩年には、前後7年にも及ぶ朝鮮半島での戦争に国民を駆りたてるが、家康は羅山に打ち明けている、「秀吉は、実は天下を取る前のほうがよほど恐ろしかった。まごうかたなき恫喝に寒気を覚えた」と。秀吉の強かな政略で追い込まれ、その配下となる。「秀吉に従う以外の道を知らぬうちに塞がれていた」のである。
 家康の秀吉観は「常に上ばかり見てきたという、その一点において、信長と秀吉の二人はよく似ている」。「ゆえに、秀吉が世の中を良く導くとは思えん。故に諦めぬぞとな」。

前田利家」――。秀吉の死、享年63。時に家康57、利家61歳。天下取りを目指す家康にとって、秀吉と共に信長麾下の宿将であり、今や秀頼の後見人として家康の専横を譴責し、豊臣家中で“人望”を集める利家は「家康の最も煙たい存在」であった。「家康以上の凡物・前田利家にさえ、人望という形に於いて全くかなわなかった」ことを家康は認めていたとする。

石田三成」――。秀吉の死の翌年、利家の死。慶長5年(1600)の「関ヶ原」が一気に動き出す。豊臣政権の苛烈な政策で人心が離れるなかで、豊臣恩顧の武将が豊臣氏に見切りをつけ、家康になびく者が増えていくが、三成はただ一人、秀吉の遺言を守り、秀頼のため豊臣のために、家康の前に立ちはだかった。はたして、三成は凡将であったのか。家康は三成が挙兵しても人は集まらないとみていたのか。「恐れるに足らず――その油断を誘うべく、三成はずっと死んだふりをしていた。三成はつくづく恐ろしい奴だった。三成が12万も束ねるとは。もし三成が秀頼の出馬を勝ち取って東下していたら……」。齢59の今まで、みずからの非才を痛感し続けてきた家康は三成に「恐れを抱かされたこと」そのものを噛み締めている。

黒田如水」――。秀吉を天下人にした天才軍師の官兵衛孝高(如水)は秀吉の智嚢だった男。秀吉は如水の智謀を恐れていたが。家康も「如水がいかなる時も平らかな眼差し、面差しをしているが肚の底が見えない。得体の知れぬ恐ろしさに、身震いしている」。
 如水は関ヶ原の戦いが終わったと知りつつ、九州を平らげて回った。「三成に与して大敗した西国衆の多くを併呑して力に変えるのは如水には容易な話。そうなっていたら関ヶ原を超える苦難の一戦が強いられたはず」。「奇異な恐怖。あるいは秀吉も同じ思いを抱き、如水を遠ざけていたのか」と。しかし、家康が如水の才能に嫉妬することはなかったとする。

 掉尾を飾るのは幸村の名で遍く知られる名将「真田信繁」――。大坂夏の陣。幸村は家康本陣に突入し、旗本を蹴散らす。家康の金扇の馬印が砂塵にまみれ、家康が自害を口走ったと言われるほどの壮絶果敢な追撃であった。が、家康は懸命に力を尽くして生きのびる。
「やはりわしは凡夫よな。非才ゆえにひとを恐れ、恐れたからこそ生き延びた。生き続けた末に、世の頂にという座に就いた。すべては自分の生を慈しんできたがゆえなのだ」……。
「齢75を数える今まで、多くの者を恐れてきた。そして恐れた相手からおしなべて何かを学んできた。天下をこの手に握ったのは、いうなれば自分の怖がりだったからこそ」……。

 家康の生涯のその時々の生きざまに注目し、短編という限られた紙幅の中に、従来の諸作とはまったく異なった視点で、人間家康の素顔を活写している。短編小説技巧の冴えわたる作品で、読みどころ満載である。読者諸氏は自らひもといて吉川流戦国史観を堪能していただきたい。

          (令和4年11月17日  雨宮由希夫 記)