雨宮由希夫

書評『宮澤賢治 百年の謎解き』

書名『宮澤賢治  百年の謎解き』           
著者 澤口たまみ
発売 T&K Quarto BOOK
発行年月日  2022年8月1日
定価  2420円(税込) 

 

 

 1933年(昭和8年)9月21日、37歳で夭折した宮澤賢治には、禁欲を守った“聖人のイメージ”が浸透しているということを本書で知って驚いている。はたして賢治はその生涯を童貞で女性体験もなく終えたのだろうか。

 賢治に相思相愛の恋人がいたらしい。それも一度は結婚を考えた恋人が。その女の名を大畠ヤスさん。ヤスは賢治より4歳年下で、花巻の賢治の家からほど近い蕎麦屋の長女であった。ヤスの発見者は今は亡き在野の文学研究家・佐藤勝治で、「全くの偶然から」1975年(昭和50年)ごろ、盛岡に住んでいた勝治が発見したという。
 本書は賢治の相思相愛の恋を読み解くべく賢治の言葉と向き合ってきた記録である。著者の澤口たまみは1960年(昭和35年)、盛岡の生まれの絵本作家・コラムニストで、著者が賢治の恋愛を明らかにしようと決心したのは、2003年(平成15)のことであるという。以来20年もの長きにわたり賢治とヤスの恋を読み解くべく、賢治自身が書き残した言葉に耳を澄ませて来たことになる。

 著者は言う。「恋も女性体験も、本当のことは賢治にしかわからない。しかも賢治の恋はさまざまな事情があったにしろ、隠されてきた。いわゆる賢治研究に必要な物証や証言を集めることは困難ならば賢治の恋をその作品の中に探る他ない」と。また、「聖人のイメージを壊すつもりは毛頭ないが、賢治が恋愛を経験していないという前提に立てば、理解できない作品が数多くでてきてしまう」とも。
 「さまざまな事情」とは何か。あえて「聖人のイメージを壊すつもりは毛頭ないが」と断り書きを添えざるを得ないのはなぜか。読者は早くも著者の解き明かそうとする世界に惹きこまれるであろう。
 1921年(大正10年) 25歳の賢治は1月に家出し、東京で暮らしていたが、8月中旬、故郷花巻で療養していた妹のトシが喀血する。「スグカエレ」の電報を受け取るや、賢治は書き溜めた原稿をトランクに詰めて直ちに花巻に戻っている。
賢治とヤスが以前から知り合いであった可能性があるが、賢治がヤスを見初めたのはこのころのことであろうか。
 1924年(大正13年)4月20日に賢治が自費出版した『心象スケッチ 春と修羅』は大正11年1月6日から12年12月10日の賢治の“心象スケッチ”であるという。心象スケッチには深い意味がある。賢治は自らの作品を「詩歌」と区別し、自らの心象を「そのとおり」に写し取った「心象スケッチ」であると主張しているのである。現存する賢治の書簡は500通にのぼるが、賢治とヤスが恋愛していたと思われる大正11年から13年にかけてはぽっかりと書簡がないという。書簡を書く暇を惜しんで「心象スケッチ」の創作に打ち込んでいたのであろう。
 1922年(大正11年)1月、賢治はヤスと冬の小岩井農場を訪れていると著者は推察している(313頁)。岩手山の南麓に位置する国内最大級の民間総合農場である小岩井農場は賢治お気に入りの場所で詩や童話にも取り上げられているが、農場以外では盛岡劇場や開館したばかりの県立図書館をヤスとのデートの場にしているという。盛岡は賢治が13歳で盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学し、22歳で盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業するまでのおよそ10年もの歳月を過ごした青春時代の思い出の街であり、ヤスとのデートで再訪していたことになる。
 しかし、春はやく、密かに始まっていたと推定される賢治とヤスの恋だが、二人の恋が再びの春を迎えることはなかった。前年11月27日、結核で病臥中のトシが死去したことも影響しているであろう。賢治の良き理解者であった最愛の妹・トシ享年24であった。
 ヤスとの恋が暗礁に乗り上げ、ヤスとの縁談がいよいよ壊れる1923年(大正12年)春、「やまなし」、「氷河鼠の毛皮」、「シグナルとシグナレス」を岩手毎日新聞に発表。著者は「時期的に見てこの3作を“失恋三部作”と呼んでいい」とする(167頁)。
結果としてふたりの恋が成就せず、ヤスは失意のままアメリカ在住の男性と結婚している。賢治との縁談については、ヤスの母・大畠潤が賢治をヤスの結婚相手として不適格と見做し反対だったことは判明しているが、これに対する宮澤家の反応については不明であるという。
 「さまざまな事情」とは宮澤家の噂、妹トシの病、賢治自らの肋膜炎などであろうか。かつての花巻の町には、宮沢家は結核の多い家系であるとの噂がまことしやかに囁かれるなど、裕福な商家である宮沢家に対する反感が少なからずあり。加えるに、賢治個人は、花巻では「貴人」ならぬ「奇人」で通っていたという。
 1924年(大正13年)4月20日、賢治は『心象スケッチ 春と修羅』を自費出版している。『春と修羅』の出版を思い立った背景には、自らの恋と妹トシの病、この二つのテーマがあり、自費出版の動機の一つは、まもなくアメリカに旅立つヤスに渡すためだったと著者は推察している。(230頁)
 著者は断言する。「ヤスを好ましく思ったことが、賢治を詩人にし、『春と修羅』を書かせた一つのエネルギーになった」(57頁)と。そして、「最も重要に思っているのは、大畠ヤスが相思相愛の恋の相手であるが、それが作品にどう反映されているか」であると自問し、「賢治はヤスさんへの恋を作中に記している」と自答している。
 母音に注目して言葉の意味を見直しながら、『春と修羅』を声を出して丹念に読む ことによって、ついに、著者は発見する!
 「ヤス」の名前は「a-u」。羅須地人(らすちじん)協会の「羅須」の母音も「a-u」。「春と修羅」の「春」も「a-u」であることを。
 「韻を踏むことと恋を記すことは賢治のなかで分かちがたく結びついている」(199頁)。賢治は相思相愛の恋人ヤスさんの名前と同じ母音を持つ言葉を作中に隠して、密かに恋を記している(202頁)。< br /> 「20年近く賢治の恋を読み解いてきたわたしの、これが一つの答えです」(204頁)と著者は控え目だが誇らし気である。
 

 賢治との恋を諦めたヤスのその後について――。
 大正13年6月、ヤスはアメリカ在住の及川姓なる男性との縁談を受け入れ、横浜港からアメリカへと旅立つ。シカゴ着は7月2日(その前日の7月1日 アメリカで排日移民法が成立している)。が、渡米からわずか3年後の1927年(昭和2年)4月13日未明、ヤスはシカゴで死去している。
 『銀河鉄道の夜』はヤスが海を渡った頃に書きだされ、最晩年まで繰り返し改稿された作品だが、『銀河鉄道の夜』には「コロラドの高原」「インデアン」などアメリカを思わせる言葉がちりばめられている部分があるとも著者は指摘している(316頁)。
 生涯を禁欲的に終えたと伝えられる従来の賢治像を打ち砕いて、著者は記す。
 「恋とは縁がなかったとされてきた宮澤賢治だが、賢治が相思相愛の恋を経験していて、その相手が大畠ヤスだったことは、広く信じられるには至っていない。けれども、賢治はヤスさんの名前を母音で踏む言葉に託して確かに書き残していた。もしも賢治の作品を、作者の意図に沿って読み取りたいと願うなら、大畠ヤスさんの存在を無視することはできない。この本でお伝えしたいのはただそれだけです」(346頁)と。
 蛇足ながら。賢治の聖人性を重視する“専門家”からの異論もあり、中には、
何でもかんでもヤスに結び付けるな、不用意な発言を控えるべきとの叱声に近い意見もあるとのことである。
 若い頃、評者(わたし)はほんの少しばかり賢治を齧ったことがあるが、当時もそして今も、賢治はユーモアに富んだ人柄で言葉遊びの好きな人で、賢治といえば、詩集『春と修羅』、童話集『イーハトーブ童話 注文の多い料理店』の2冊を自費出版しただけの、生前ほとんど知られることなく生涯を閉じた無名作家、といった“知識”しか持ち合わせていなかったように思う。致命的なことは賢治の作品そのものを読んでいないことである。「賢治と大畠ヤスさんの恋をめぐる長い長い旅」の物語である本書を紐解き、賢治がユーモアに富んだ言葉遊びの好きな人であると再確信した。澤口たまみさんの呼びかけに誘われて、賢治作品を読み直す旅に出かけようと思う。

              (令和4年9月29日 雨宮由希夫 記)