雨宮由希夫

書名『トオサンの桜  台湾日本語世代からの遺言

書名『トオサンの桜  台湾日本語世代からの遺言』

著者 平野久美子

発売 潮書房光人新社

発行年月日  2022年6月23日

定価  ¥840E

 

 

 

 日本語のすでに滅びし国に住み短歌(うた)詠み継げる人や幾人

『台湾万葉集』(集英社1994)の編著者孤逢(こほう)万里(ばんり)(1926~99)さんの詠んだ短歌である。日本の統治時代が終焉し、蒋介石(しょうかいせき)の国民党政府が閩南語(台湾語)と日本語を禁止しても、植民地という環境で育った「日本語世代」といわれる台湾人にとって、旧宗主国の言語である日本語は自分の感情や感性を表現するためには容易に捨てられない必要な言語でもあった。

 台湾は複雑な多民族・多言語社会である。日常生活には閩南語、客家語、北京語などを用いる多言語の世界で育てられた世代が同居している。それに英語、日本語的要素までもが混在しているのが今日の台湾の言語情景で、そこから生まれる国際感覚やモチベーションの高さは日本人が見習うべきものであろう。

 本書『トオサンの桜―台湾日本語世代からの遺言』は15年前の2007年、小学館から単行本として刊行された『トオサンの桜―散りゆく台湾の中の日本』を改題、大幅に加筆、改訂して文庫化したものである。評者(わたし)は、単行本の時に既読したと気安く思いながら手にしつつ、改訂版としての本書を手に汗しながら、読み耽っていた。次第に平野ワールドに引きずり込まれたのである。

 先ず、副題が、「散りゆく台湾の中の日本」から「台湾日本語世代からの遺言」へと変わっているように、この15年間に台湾をめぐる国際環境は目まぐるしい変化を遂げている。とりわけ、胡錦濤体制から習近平体制に変わったことで、台湾・香港情勢は激変した。台湾は香港の如く中国に飲み込まれ、日々北京の意向を窺いながら生きることを欲していないが、軍事大国・中国は「祖国統一」の美名のもとにナショナリズムを煽り、台湾の香港化を推し進めている。そうした現実を踏まえて著者は「時代の流れを加えて加筆」している。

「多桑(トオサン)」は日本語の「父さん」の発音に漢字をあてはめた台湾語であるが、著者はトオサンとは「日本統治時代に習い覚えた日本語に愛着を覚え、日本に対し、理屈を超えた愛憎ないまぜの感情を抱くお年寄り」であると定義づけし、「台湾という親木に“桜の教え”など日本の教育や道徳を接ぎ木されたおかげで、新しい芽が吹いて、さらに強靭でしなやかな精神を獲得したトオサンたち」と哀惜を籠めて彼らに呼びかけている。

 日本統治時代、日本人は陽明山、日月潭阿里山などに桜を植樹していくつかの花見の名所をつくったが、戦後、「桜」は「神社」と同様、日本人が台湾に勝手に持ち込んだ「日本」であるとされ、国民党政府によって切り倒された。そのような中、ひとりのトオサンで「台湾の花咲爺さん」と呼ばれる王海清(おうかいせい)さんが三千数百本の桜を二十数年かけて黙々と植えてきたということは小学館版単行本で紹介されているが、改訂版の本書でも王さんは主役のひとりである。 

 台湾民主化の舵取りをした李登輝(りとうき)元総統も、一庶民の王海清さんもトオサンであるが、トウサン世代の台湾人がすべて親日的であるとするのは二者択一的思考に陥りがちな日本人の勘違いであり誤りである。トオサン世代の台湾人の日本に対する感情は「親日」とか「反日」、「好き」とか「嫌い」といった単純なものではない。日本が引き起こした戦争に駆り出されるというトオサンに共通する運命があったとしても、トオサンの境遇はさまざまであった。

 私事ながら。わが妻の実父母も「日本語世代」である。すでに逝ってしまったが、わが岳父母は共に日本植民地期を生き、激変した戦後社会を生き抜いてきた農民であった。日本統治下の1922(大正11、民国11)年、台北の西・蘆州(ルーチォウ)に生まれた義母は「媳婦仔(シンブア)」(10代にもならない少女が、他家に養女に取られ、最初は家事手伝いとして奉公する児童婚姻という台湾の伝統的な農業社会の旧習)として、蘆州の隣村・三重(サンソォン)の岳父に嫁ぎ、6人の子をなし、馬車馬のように働き、23歳で、光復(日本の敗戦)を迎えている。話せるのは閩南語のみであった彼女は片言の日本語で「講習所 夜、行った。ラジオ、聴いた。日本の歌、習った。愉しかった」と語り、童謡「夕焼け小焼け」を口遊んでくれたことがあった。農村の婦女子に教育などもってのほかとする伝統的な台湾社会の父権制度の中で、彼女は自らの運命を決定する自由をほとんど持ち得ず、かつ、教育を受ける機会を与えられなかっただけに、戦時中、「国語講習所」(公学校に通えない、つまり正規の学校教育を受けられない多くの漢族系住民に対し、「国語」をはじめとする教育を行うべく、「日本精神」を涵養するという理念・目的のもとに、台湾総督府が1930年代初期から設置された社会教育施設)に通ったことは数少ない愉しい思い出として義母のこころの中に生きていたのであったろう。

 トオサンと呼べる人がどれだけいるのか、「正確な数はもはやわからない」という。トオサンとは日本の敗戦の昭和20年の時点で、国民学校の高学年以上に在籍していた、つまり12歳以上だった人々で、戦後77年の今日現在ではそうとうの御高齢である。最小年齢の12歳であった方ですら89歳をカウントする。

 トウサンといっても皆一様ではない。「早晩いなくなってしまう彼らの声。日本人として生きた矜持や無惨、激変した戦後社会で体験したアイデンティティの混沌を聞いてみたい」として、著者は様々なトウサン、並びに日本語世代の両親を持つ「日本語世代二世」と出逢い、交流を深め語り合い、トウサンの語る真実から、これだけは日本人に言い残したい、伝えたいという魂の叫びを聴きながら、「台湾の歴史」を紡ぎだしている。「どんなに時代の波に翻弄されようとも人間としての尊厳を保ちながら生きてきた」トウサンたちの人生は台湾の戦前戦後史そのものだったのである。

 戦後台湾の悲劇は蒋介石の国民党政権が台湾人の教師や父兄を白色テロの恐怖で縛り上げ、中国人としての歴史観や教育を押し付けるべく閩南語、客家語と日本語を禁止し、戦前の日本語同様、政治的に強制された新しい「国語」として中国語を問答無用に台湾人に押し付けたことに始まる。

 台湾の日本語世代たるトウサンが戦後台湾社会においてどんな役割を果たしてきたのかと設問した著者は、「日本統治時代の甘美な部分の記憶をもとに中国人になることに抵抗を示し、戦後もずっと“桜恋しや”という心情を温存してきたトオサン世代がいたからこそ、台湾アイデンティティ―の確立、民主化の流れは加速したともいえるのではないか」と総括しつつ、「年々、人生を卒業していく日本語世代の言葉はまるで次世代への遺言のように響く。今、一度しっかと耳を傾けたい。個人史をひとつでも多く書き残してほしい」とトウサンたちに残された時間が無いのを知った上で、最後の注文を付けている。

 蛇足ながら。評者ももう少し義父母と語り合っておくべきだったと後悔している。日本の戦後の姿をどう評価しているか、日本に求めることは何か?などなど、ゆっくりと話をする機会を持たなかった自分の幼稚さ、未熟さを情けなく思うが、すでに彼らが人生を卒業してしまった今となっては後の祭りである。

 加えるに、評者も既に70代である。日台両国にまたがる父祖たちがいかに生きたかを踏まえつつ、日台関係の行く末を見据え、日本と台湾の未来に向けて語り継ぐべきことを語り継ぐべく、書き物を残していかねばならないと思う。

 

         (令和4年9月13日 雨宮由希夫 記)