雨宮由希夫

書評『やわ肌くらべ』

書名『やわ肌くらべ』                     
著者 奥山景布子                        
発売 中央公論新社
発行年月日  令和4年7月10日
定価  ¥1700E 

 

 

 平安鎌倉から幕末明治までの多岐にわたる時代を背景に、史実と丹念に向き合い史実の奥に潜む物語を歴史小説として紡ぎ出している奥山景布子(おくやまきょうこ)が今回取り上げたのは明治・大正・昭和を生きた歌人・与謝野(よさの)晶子(あきこ)(1878~1942)である。

 晶子は明治11年(1878)大阪府堺市の老舗菓子屋に生れた。家業を手伝うかたわら17歳ころから歌を発表、明治33年、与謝野鉄幹(寛)と出会い、翌年6月、実家の反対を押し切って、寛の許に奔るべく上京、妻と離別した寛と同棲。2か月後の8月には「乳房」、「柔肌」、「熱き血潮」、当時としては極めて官能的な用語を奔放に駆使した短歌集『みだれ髪』を刊行。広く一般社会まで多くの人々の関心を集め、寛の主幹する『明星』を代表する歌人として活躍した。明治35年1月には、入籍し、鳳(ほう)晶子から与謝野晶子と名前を変え、以後、寛との間に5男6女を儲けながら、歌壇の女王として君臨した……と、まとめてしまうと本筋を見誤る。
 評者(わたし)は明治文学史については特別の知識もない全くの門外漢ながら、繰り広げられたかの異常な人間関係の展開はどのような精神構造、感性によってもたらされたものなのか。“情熱の歌人”とされる与謝野晶子の一生の真実に迫りたいと思うのである。
 そもそも鉄幹とは何者か。「妻を娶らば才たけて」というあの人口に膾炙している詩が鉄幹の詩であったとは。今業平(いまなりひら)を自任した鉄幹は生来の女好きで、自らの触手の範囲内に現れてきた女たちの全てを自分の愛人と考え、白芙蓉(林(はやし)滝野(たきの))、白萩(晶子)、白百合(山川(やまかわ)登美子(とみこ))、白梅(増田(ますだ)雅子(まさこ))などさながら白い花を冠した源氏名の如き愛称をつけ公然と呼んでいた。多くの女たちが“時代の寵児”たる鉄幹を無上の師として慕い憧れたが、鉄幹には妻があり、まもなく子が生まれることを知りつつも、その愛を勝ち取るべく競ったのが最大のライバルとなった晶子であり、山川登美子であった。

 本書は5章33編より成る。「編」の主人公は「滝野」、「晶子」、「登美子」、「もよ」の4人(「鉄幹」の編はない)で、各編とも主に一人称の独白で語られる。 
明治22年(1889)当時「安藤先生」といった寛と、11歳の滝野がはじめて会う林滝野(1178~1966)の回想シーンから物語ははじまる。山口県徳山町で教師だった寛の教え子だった滝野は明治32年(1899)10月、徳山の滝野宅を訪れた寛に強引に求婚され同意するが、寛に8年も連れ添い、未入籍のまま子まで生した女がありながらその女を捨てて、半年も経ないうちに、平然と別の女である自分に求婚していたことを滝野が知ることになるのはついに上京し、麹町で寛と同棲した後のことであった。
 物語は基本的に出来事が時系列的に記述されるが、真相真実が時に“スイッチバック”形式の中に、時に“藪の中”的にあぶりだされるところに興趣がある。
 『明星』が創刊された明治33年(1900)の夏、寛は大阪に行くが、「第1章 人を恋ふる歌」の「二 もよ」には、「旦那が汽車に乗ってお出かけになりましたのは、七月の末か八月のはじめでしたかねえ」(22頁)と与謝野家の御手伝いさんの河本(こうもと)もよが語るのを引き継いで、「四 滝野」で、「寛さんは、予定の期日を十日も過ぎて、ようやく帰ってきた……この頃の寛さんは妙に機嫌が良くて……本当のことはあとから知ることになりますけど」(38~39頁)と滝野が引き継ぐ。
 寛は8月2日に夜行で東京を発ち、大阪に向かい、20日に帰京。およそ3週間に及ぶ関西旅行、この間何があったのか?!実は寛と晶子、登美子の運命の出会いがあったのであり、このことは「三 晶子」で、晶子自らが語るという小説作法である。
 晶子の好敵手と目された山川登美子は明治12年(1879)7月、福井県小浜(おばま)に生まれた。『明星』の初期以来の主要な同人であり、寛への憧憬と恋慕の情を明らかに歌う。
 滝野にとって、架空の歌の世界のことであるとしつつも、濃厚な恋歌を交わし合う寛を含める3人は「言葉を弄び、人の気持ちを弄ぶ人たち」(46頁)としか見えず、自分という妻がありながら、臆面もなく、他の女に手を付ける良人を見て、「嫉妬というよりは生理的な不快感」(47頁)を感じたに相違あるまい。  

 たった一度きりだが、晶子と滝野が会う印象的なシーンがある。
 明治34年(1901)晶子(24歳)は6月に堺の生家を逃れて上京、すでに鉄幹と同棲しているが、萃(あつむ) (寛と滝野の子)の満一歳の誕生日である9月23日に、渋谷(しぶや)村の寛・晶子の家での誕生祝に事寄せて、在京中の滝野を招いたことがあったらしい。このことは正富汪洋(1881~1967)の『明治の青春――与謝野鉄幹をめぐる女性群』(1955年刊)に記されている。詩人・正富汪洋は寛と別れた後の滝野の再婚相手である。資料としての信頼性に欠ける憾みがあるにせよ鉄幹・晶子研究に不可欠の書といえる。
「割烹着を着た晶子さんがちらし寿司を用意してくれました。寛さんは酒を飲みながら、妙にうれしそうに私たちを見ていました」(169頁)。なお、昭和29年の佐藤春夫の新聞連載小説『晶子曼荼羅』(1954年刊)にはこのシーンの描写はない。
 滝野が去った後、滝野の代わりを埋めるように、夫に死なれて独り身の登美子が上京してくる。日露戦争最中の明治38年(1905)の正月に、晶子、登美子、雅子の3人の合著歌集『恋衣(こいころも)』が刊行される。その年の11月5日、寛は登美子と神田で密会。寛が今度は登美子とかつての愛を蘇らせたことを知り晶子は愕然とする。
 明治41年(1908)11月、『明星』は第百号をもって廃刊。翌年4月15日『明星』廃刊の後を追うように、登美子が死す。29歳9カ月であった。晶子の華やかさに比して憂愁の日を送り、郷里で薄幸な人生を終えたその生涯は佳人薄命という他はないが、独身時代からのライバルの死を知って、晶子はやっと青白い嫉妬の炎をおさめることができたのであろうか。「亡き登美子さんに捧げる歌は私も作ったのですが……。とても、この時の寛さんの歌には敵いません。ご披露しない方がいいでしょう」(269頁)。       

晶子に関する評伝、伝記の類は非常に多いが、そのほとんどは、寛と晶子の出会いに始まる二人の灼熱の恋の過程、『みだれ髪』の刊行が中心で、明治44年(1911)11月8日にはじまるパリ旅行までのいわば“前半生”で終わっている。
 本作も「パリ旅行」で終わっている。最終章の第5章は6編構成。「三 登美子」、「五 滝野」、「六 晶子」の三人揃い踏み、本作は三人の「やわ肌くらべ」3人の物語であり、終わって当然なのである。
「五 滝野」で、作者は「晶子に夫を盗まれた女」である滝野に「私は決して晶子さんを許さないことに決めました」(288頁)と言わしめている。
 評伝小説は事実と史料によって制約される。小説仕立てだから、当然、事実通りではない。『晶子曼荼羅』の佐藤春夫は「詩的幻想として美しく虚構のなかに現実以上の真実を現わすことができればそれが真の創作というものだと思う」と述べているが、『晶子曼荼羅』が「小説形式で苦心して辻褄を合わせようとして、ありもしないことを書いている。虚構とするなら、あまりにも念の入りすぎた虚構」と批評されたのも故なしではない。春夫が「終に詩人の妻にはふさわしくない滝野」と断じているのは個人の感情判断だから言うことはないが、「林滝野なんて端役のことは小生にとってどうでもよいのですが」との暴言は明らかに作家の驕りのもたらしたあるまじき失言であろう。

 奥山景布子の評伝小説の成功の源は春夫が「要もない端役は歯牙にもかけず」と吐き捨てた滝野やもよを主役級の語り部として甦らせたことである。

             (令和4年8月31日 雨宮由希夫 記)