書名『魔王の黒幕 信長と光秀』
著者 早見 俊
発売 中央公論新社
発行年月日 2020年7月25日
定価 ¥880E
光秀の前半生は謎に包まれ、主殺しの理由も諸説ある。本書は作者自らが語るように「本能寺の変を中心に据え、丹波亀山城から本能寺に進軍する数時間に光秀の生涯を凝縮させて描いた作品」。福井新聞紙上に連載されるということで、越前時代の光秀に多くの頁が費やされ、新たな明智光秀物語に仕立て上げられている。
出だしを読む限り、主人公は光秀と円也の二人のように見える、とのみ、これから読まれる読者のために記しておきたい。
さて、信長より中国出陣を命ぜられた光秀は、天正10年(1582)6月1日の午後10時頃、1万2000の軍勢を率いて丹波(たんば)亀山城(かめやまじょう)を出発するが、老の坂(おいのさか)(京都市右京区鷹ケ峰から丹波に入る坂)にて反転し桂川を渡って京に入り、2日午前6時ごろ本能寺を包囲。ここまでは史実と符合しているといってよいだろう。
亀山城から本能寺までは約20キロメートル8時間、分岐点の老いの坂からは11キロメートル2時間ほど。この間、本作は二つの物語が入り交じる形で進行する。ひとつは「本能寺」に至る現在進行形の物語で、光秀と円也(えんや)のやり取りがあり、もう一つは過去の軌跡への光秀の回想で、そこから光秀は波瀾に満ちた我が人生を総括し、本能寺に近づくにつれ、とるべき道を選ぶのである。
円也とはいかなる人物か。越前時代の光秀は越前国坂井郡長崎の時宗の寺院・称念寺(しょうねんじ)門前で牢人暮らしをしていたが、円也という僧と懇意となり、やがて円也を首領とする「円也党」なる光秀独自の情報機関を作り上げたとする。
光秀と足利義昭をいかに結びつけるかが作家にとっての大きな課題であったという。光秀は義昭の近臣の細川(ほそかわ)藤孝(ふじたか)と称念寺門前で出会い、藤孝の推挙によって義昭に仕えることにより、光秀の運が開かれる。しかし、義昭を将軍につけたのは信長である。が、そもそも「義昭を信長に引き合わせ、将軍への道を開いたのは自分なのだ。あの時は心底、義昭の将軍任官と幕府再興を願ったのである」と光秀。
永禄11年(1568)7月28日、「義昭を奉戴して上洛してから、信長の天下布武への道が開けた。思えばあれが闇の始まりであった」。本作のキーワードである闇とはなにか。「今は戦国乱世、闇に覆われた世だ。乱世の闇を掃うには、より巨大で濃い闇が求められる」。
本作で、光秀は乱世の闇を掃うべく、三度、信長を操る。一つ目は、元亀2年(1571)9月の比叡山焼打ちである。旧来の通説では光秀も信長による神聖不可侵とされてきた霊山の焼打ちを諫める側に立っていたとされるが、本作では「殿、天下静謐のため魔王と成り、比叡山を焼き尽くすこと、おやりなされませ」と比叡山焼打ちの決断を信長に迫ることで、信長を操る。信長、義昭両属の家臣で未だ信長の直臣ではなかった光秀が信長の意志決定にどの程度関与していたかは不明だが、当初から光秀は信長の天下布武の事業に積極的に関わってきたのである。
「信長は焼打ちで人が変わった。信長の中に棲む魔王の本性を引き出し、闇の世界へ案内したのは光秀だった」。さらに、光秀の妻・煕子(ひろこ)(天正4年11月7日没享年30)は「もっと、非道な男におなりなされ」と光秀を煽る。煕子は「民が笑って暮らせる世を招く」という光秀の言葉に賭けたのだ。
新たな光秀像が描かれている。光秀は「非道な男」であるとともに、敵を陥れるに手段を選ばない表裏者であるとも。年来の盟友ともいうべき間柄の細川藤孝を騙したこともある。藤孝との交流の原点は光秀の出自まで遡れる、それほどの人物である。
二つ目の操りは、義昭と信長の争い。義元の許を去り、信長の直臣となった光秀は「私は織田信長というお方の闇に賭ける」として藤孝に義昭との決別を迫る。
元亀4年(1573)、光秀は「足利将軍家が京の都にある限り、戦乱は終わらず、闇は晴れない」と信長包囲網で窮地にあった信長に、義昭追放を進言。すでに武田信玄はその年の4月に病没しているにもかかわらず、信玄は生きていると虚言して、義昭を信じ込ませ、打倒信長の挙兵を煽る。果たして義昭は二度も挙兵するが、敗れるべくして敗れ京都より追放される。謀略通り、義昭追放後、信長は朝廷に奏請して「天正」と年号を改める。信長時代の到来である。電光石火、その年の8月、信長は朝倉・浅井氏を滅ぼす。京文化の粋を極めた一乗谷は焼打ちされ地上より消滅する。
翌年の天正2年(1574)11月、伊勢長島の一向宗徒2万人の撫で斬り。信長の「伊勢長島を比叡山にするか」の言を聴き、光秀は戦慄する。「やはり信長は大量虐殺を愉しむのか。天下布武という大目標の為もあろうが、それ以上に殺戮を楽しむ魔王となったのか。信長の中に棲む魔王の本性を引き出し、信長を魔王へと導いたのは自分だ。しかし自分は、とても撫で斬りを愉しむ気になどなれない」と。
天正3年に丹波平定を命じられた光秀は天正7年に平定を成し遂げるが、その間、石山本願寺攻めや紀伊雑賀攻めなどにも駆り出される。
本能寺の変まで1年4カ月の天正9年(1581)2月、京での馬揃えを終えて、信長は「50を過ぎたら、あとは余生じゃ。余生なら、好き勝手に生きよう」と光秀に語る。それを聞いて光秀は、比叡山延暦寺の焼打ちに始まり、伊勢長島、越前における一向一揆の撫で斬り、荒木村重一族の皆殺しへと、「これまでも好き勝手にやってきたでは」。信長が望む好き勝手とは何かる光秀の胸中に暗雲が立ち始めた。
本能寺の変まで2カ月の天正10年4月、武田攻め。円也は信忠(のぶただ)指揮下の織田勢の目に余る蛮行を目の当たりにして、「信長の闇は誠に晴れるのか。信長が死んでも信忠に受け継がれるのではないのか」と嘆き、燃え盛る恵林寺に身を投じて往生する。
円也の死によって、光秀と円也が表裏一体の関係にあることがわかる。6月2日の深夜、円也は「魔王が作り出した闇を晴らせ」と光秀に迫り、光秀が本能寺に向かうように導くが、その円也その人は2か月前にこの世の人ではなくなっているのだ。
あらためて、そのことに気づくと、「まつろわぬ者を信長は認めぬ。魔王は乱世は制せられても、太平の世を治めることはできぬ」、「もう、信長のためには働きたくない。十兵衛殿とて、信長のためにこれ以上の働きはしたくないと思い始めたのではないか」、「天下一統の道筋はついた。この後は信長に代わる者が一統をなすべきじゃ。惟任日向守こそその者ではないのか」の、こうした円也のつぶやきは光秀本人の懊悩なのであったと知る。
結論として言えば、光秀の三つ目の操りこそが本能寺の変であった。操りに止まらず信長その人の生命を奪うことになるが。
たとえば、『信長の棺』(日本経済新聞社 2005年刊)の加藤廣が、光秀謀反について、「三河殿接待役電撃解任」がターニングポイントで、「光秀の心に、この時まで〈謀反〉の文字はない」としているように、光秀に謀反を決意させたのは、天正10年4月の武田氏の滅亡に関わる諸事であったとして、光秀と本能寺の変を物語る小説が多い。
本能寺の変の動機については、古来より、怨恨説、野望説など諸説あるが、いかなる動機であろうが、謀叛の志が光秀の胸中にいつ頃萌したのかを知るのが肝要ではないか。
5月28日に開かれた愛宕権現の連歌会(愛宕百韻)の解釈も見逃せない。従来の通説では、光秀は発句に謀叛の意を秘めたとされるのが、本作では「あの時は上様を討つなど微塵も思っていなかった」と謀叛の意のあることを否している。また、光秀が謀叛の決意を信頼する家臣に告げたのは「6月1日夜、丹波亀山城」とするものが多いが、本作はご覧の通りの展開である。
「信長をして魔王の如き所業に走らせた責任は先達として駆け抜けた自分にある。織田信長という第六天魔王を生み出した自分の過去を清算すること」――信長の作った闇を晴らし、信長の世を終わらせることを己の役目とし、引き起こしたのが本能寺の変である、と結論付けて小説化していることは共感できる。
(令和2年9月23日 雨宮由希夫 記)