雨宮由希夫

書評『父のおともで文楽へ』

書 名   『父のおともで文楽へ』
著 者   伊多波碧
発行所   小学館
発行年月日 2020年9月13日
定 価    ¥700E

 

父のおともで文楽へ (小学館文庫)

父のおともで文楽へ (小学館文庫)

 

 

 短編連作5話をまとめた文庫書下ろしである。本の帯に「心にポツンと、灯火がつきました。共感度100%の家族小説」とある通りの内容、まさしくと首肯。
 主人公はシングルマザーで契約社員の37歳の女性・清川(きよかわ)佐和子(さわこ)である。73歳の一人暮らしの父と、文楽を通じて心通わせ、今日という日を生きていく! 最終話「猿回し」のシーンには涙腺が刺激されるのを禁じ得なかった。微笑ましくも麗しい父娘(おやこ)のあり様に拍手喝采。小説そのものが人生の“応援歌”である。
第1話 治兵衛――。〈文楽を知る前、父は遠い存在だった。盆暮れと法事で顔を合わせるくらいで、あとは無沙汰を決め込んでいた。……説教なんて聞きたくなかった。この先どう生きていけばよいのか。困りつつ、毎日を生きてきた。〉

 佐和子は父の敬一郎(けいいちろう)と同居していない。春のある日、佐和子は亡き母の三回忌の法要で実家へ。父の敬一郎(けいいちろう)は定年まで中学校で国語の教師をしていた。同じく教師の母明子(あきこ)は仕事と家庭を両立させたいわゆるキャリアウーマンだったが、定年後、病に取り憑かれた途端、あっという間に行ってしまった。享年65。
 両親が教員の佐和子は何不自由ない娘時代を過ごした。有名私大を卒業後、清涼飲料水の大手メーカーに就職。一般職として五年勤め、26歳のとき、義彦(よしひこ)と結婚し、出産を機に辞めた。ここまでは順風満帆だったが、まもなく離婚、浮気された挙げ句に捨てられた。不動産会社で事務の契約社員の自分を佐和子は惨めに思っている。

 佐和子には、母が生きていたら相談したい心配事があった。佐和子には梨々(りり)花(か)という現在小学四年生の娘が一人いる。娘の進路のことだが、日本とニューヨーク州の弁護士資格を持つ元夫の義彦は梨々花を米国に留学させたいという。
 法要を終えて父が「土日は休みだろう、ちょっと付き合ってくれるか」という。この父の誘いから、話が予想外の方向に転がっていく。父娘の確執もあるのだが、ここから、ひとつの家族のありふれた、しかし、当事者には深刻な状況が見えてくる。
 父が差し出したのは国立劇場での文楽のチケット。「文楽ねえ。面白いのだろうか。先入観かも知れないが、いかにも年寄りの娯楽という気がする」。
 演目は『心中(しんじゅう)天網(てんのあみ)島(じま)』。天満(てんま)で紙屋を営む男・治(じ)兵衛(へえ)が曽根崎(そねざき)新地(しんち)の遊女の小春(こはる)と恋仲になり、妻のおさんと二人の子を捨てて心中する。よりによって、そんな話――。わざわざ国立劇場まで来て、夫に泣かされる女を見せられるのかと鼻白む思いの佐和子。治兵衛の狡さに義彦を重ねる。夫に裏切られた傷はまだ癒えていない。
 初めての文楽は終わった。その後のお茶とケーキで感想を言い合うのも思いの他楽しい。文楽のこととなると父はこんなに饒舌になるのかと父の新たな一面を発見する。
「次は5月だ」「また付き合え」。これが最後だったらどうしよう。いつの頃からか、佐和子は別れ際になるとそう考えるようになっていた。

 第2話 清姫――。有名な演目「日(ひ)高川(だかがわ)入相(いりあい)花王(ざくら)」。嫉妬に狂い蛇になった女清姫伝説をもとにした物語。歌舞伎の「娘道成寺」である。心中の次は蛇女か、今日も観る前から怯んでいた。佐和子は清姫にかつての自分を見ていた。文楽が面白いかどうか、まだわからないが、いずれ面白いと思える日が来るだろうと佐和子は思う。
「敬一郎は佐和子が清姫に名を借りて、自分の話をしているのに気づいた敬一郎は、「焦らず、腐らず、ともかく生きることだ」とさりげなく諭す。

 第3話 八(や)汐(しお)と政岡(まさおか)――。9月の国立劇場に、敬一郎はいなかった。父の代わりに梨々花の家庭教師の野坂が現れ、再婚を考える佐和子の心が揺らぐ。
9月の演目は時代物の「伽羅(めいぼく)先代(せんだい)萩(はぎ)」。八汐と政岡の女二人が主役。八汐は怖すぎるが、政岡の生き方に自らを重ねる。人形のお芝居を観て、自分の行く末を真面目に考えている佐和子がいる。それが不思議だと佐和子自身は感じる。

 第4話 おみつ――。9月、持病の糖尿病が悪化して父が入院したと知らされる。
10月の演目は『新版歌(しんぱんうた)祭文(ざいもん)』。おみつとお染(そめ)の娘二人が一人の男久松(ひさまつ)をめぐって、丁々発止を繰り広げる。「佐和子にはぴったりだな」と公演には行けない敬一郎。一人で行ってみようかな。見てきた感想を聞かせたら、父が喜ぶかもしれないと佐和子。
 あんな年端もいかない田舎娘が未練を断ち切ったのだ。自分にもできる。佐和子は今日の演目を見て、梨々花を手放そう、娘をニューヨークに行かせようと決める。親のエゴで娘の可能性を潰すような母親にはなりたくないと。

 ラストの第5話 猿回し――。11月の半ば、敬一郎は藤沢市の老人ホームにいる。春先から、敬一郎は老人ホームへ入所するつもりだったのだ。一時は同居を考えていた佐和子は父が娘の自分に何も言わず老人ホームに入ったことに衝撃を受けている。
 2月の半ば、一方的に勝手に連絡を絶っていた父から連絡があり、再会。車椅子に座った敬一郎を見て、佐和子は父がなぜ黙って老人ホームに移ったかを理解する。父は娘に余計な負担を賭けさせたくなかったのだ。
「お前も文楽が好きになったか」。文楽は可哀そうな話ばかりで嫌になる。いったいどこに惹かれるのだろうかと思う佐和子だが、「おかげさまで、自分でも不思議だけど」。「また、お前と文楽に行けるといいな」と敬一郎。

 人生の引き際を見つめた敬一郎の最後の説教が寂しくもあり味もある。「努力なんてめったに報われないんだ。佐和子だってもう知っているだろう。人生なんてそんなもんだ。報われたら御の字とでも思っておきなさい」。「文楽か。あそこに行くと、ただの観客になれる。ただの自分。何も考えず、泣いたり笑ったりしていればいい」。
 日頃は身の程を意識して口をつぐみがちな佐和子にとって、文楽は社会の座標から離れて、物語に没頭できる場所となった。もしかすると、敬一郎は佐和子が思い悩んでいることを察して、少しは気を休めなさいと、文楽に誘ってくれたのかもしれないと佐和子は父に感謝し、一方、敬一郎は娘の身を案じつつ、少しずつ自分の居場所を切り開いていく娘の成長を喜んでいる。
 5月、梨々花を連れて国立劇場へ。杖を手放せない敬一郎は藤沢の老人ホームから介護タクシーを使って、やってきた。あと何回、こうして文楽を観に来られるか。
今日の演目は『近頃(ちかごろ)河原(かわら)の達引(たてひき)』でその中の「堀川(ほりかわ)猿(さる)回(まわ)しの段」を観る。これまた心中の話だが、小さな体で道化を演じる猿が愛おしいまでに可愛い。梨々花がニューヨークへ旅立つ日も近い。いつか、たぶん、そう遠くないうちに敬一郎もいなくなる。一瞬でも別れの辛さが和らぐかのように猿は踊っている。文楽初体験のだが身を乗り出して見入る梨々花。眩しそうに目を細めて見入る敬一郎。「そのうちきっと、この日のことを思い出すときが来る。涙と共に。このままずっと見ていたい。いつまでも終わってほしくない」。「父さん――」佐和子は胸のうちで呼びかける。「文楽を見ているうちに、過去を振り返って悔やむより前を見て歩いていくことの大切さを知った。だから、大丈夫、わたしはやっていける」。このラストシーンには泣けた。

 父娘、母子、夫婦や親子など、家族のあり様を取り上げ、文楽理解を通じて、温かなストーリーと永訣という冷厳なストーリーを同居させている。そこに伊多波碧という作家の凄味を見る。誰一人として、同じ顔の人はいない。それぞれに別の過去があり、違う家族を抱え、かけがえのない今を生きている。その不思議を思いながら、作家は筆を走らせている。多くの読者は、作中の物語に、己が家族を重ね併せて読むことになろう。敬一郎より二歳年下の私は妻に先立たれたなら、敬一郎のような決断ができるだろうかと思いつつ、頁を括っていた。           

            (令和2年9月30日 雨宮由希夫 記)