雨宮由希夫

書評『家康(二) 三方ヶ原の戦い』

書名『家康(二) 三方ヶ原の戦い
著者名 安部龍太郎
発売 幻冬舎
発行年月日  2020年8月10日
定価    本体690円(税別)

 

家康<二> 三方ヶ原の戦い (幻冬舎時代小説文庫)

家康<二> 三方ヶ原の戦い (幻冬舎時代小説文庫)

 

 

 本書は2016年12月に刊行された安部龍太郎の『家康(一)自立篇』の後半部を、副題を変えて文庫化したものである。以後、『家康(二)不惑篇』も二分冊されて文庫化され、『家康(三) 長篠の戦い』『家康(四) 甲州征伐』として刊行予定とのことである。

 本書『家康(二) 三方ヶ原の戦い』は「第一章決断、第二章 今川滅亡、第三章 上洛、第四章 姉川の戦い、第五章 信長と信玄、第六章 三方ヶ原」の6章構成である。
 史上の家康は桶狭間の戦い後、三河一国を掌中にし、信長と同盟するが、物語は桶狭間の戦いの8年後の永禄10年(1657)5月、家康の嫡男信康の婚礼が終わった直後の描写からはじまり、三方ヶ原の戦いで敗れるまでを描いている。
 家康は狸親父のイメージの如く稀代の策謀家として知られるが、読者の期待の一つは作家安部龍太郎がいかなる家康像を造形するかにあるが、この時期の家康を作家は次のように想い描いている。

(信長どのには、かなわない)……信長の天才的な力量に較べたなら、三河一国を手に入れて得意になっていた自分など、地を這う虫のようなものだ。が、……弱が強に勝つ、無能が有能をしのぐ道はないのか。
 思えば家康の生涯は、この探求に費やされたようなものだった。

 永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を擁して上洛し、将軍の権威を大義名分にして天下布武への道を突き進み統一への実権を固める。この時期、甲斐の武田信玄は西上の途に着くべく、信長の同盟者・家康と結ぶことで、今川家の領地である駿河遠江の切り取りを容易にしようと画策するのである。
 外交戦において巧妙な武田信玄に勝った家康は永禄12年(1569)1月、今川氏真掛川城に攻め、遠江一国を大略平定する。
 元亀元年(1570)は信長にとって忙しい年となったが、家康も同様であった。
 家康にとって、信長の命令による、2月の越前朝倉攻め、6月の姉川の戦いへの参陣は三河を空けることになり、留守中、信玄に背後を脅かされる危険が常に伴う。なまやさしいものではなかった。

 浅井・朝倉軍を姉川に破った後、家康は岡崎城を嫡男信康に譲り、遠州浜松城を居城とする。ここで、家康が「自分がなぜ信長に従って戦い続ける決意をしたのか」を、嫡子信康に語るシーンがある。その語りが興味深い。
「この国には人には分というものがあり、分相応に生きることが国の秩序を保つために必要だとする旧来の古い道徳観があるが、信長という人はこの国が新しく生まれ変わるためには、そうした古い道徳観を根底から覆そうとしている。信長の考えに共鳴している自分は、よって、信長殿の天下布武に生涯を賭ける。それがこの国のため、天下万民のために必要だと信じるからだ」と。

 信長包囲網という言葉がある。二年前に姉川の戦いに勝利したが、この時期信長は四方を敵に囲まれ、滅亡の危機にあった。浅井・朝倉は姉川の戦いで信長に敗れはしたものの、その後も畿内各地で織田軍を相手に転戦し、信長を苦しめ続けていた。石山本願寺顕如は長島・近江など各地の一向衆徒に決起を訴え続け、信長との間に10年戦争といわれる石山合戦を起こしている。信長は浅井・朝倉、顕如に代表される一向衆徒、信長に京都を追われた三好三人衆などの反対勢力を叩くために、東奔西走。元亀2年9月には、浅井・朝倉に味方する比叡山延暦寺を焼打ちしている。かくして、信長を追い込んで殲滅すべく、信玄をも巻き込んだ包囲網が築かれつつあった。この時期、畿内の信長の勢力と、反織田勢力は、信玄の上洛の動きを見ながら、戦っていたのである。

 はたして、信長と信玄の戦略はいかに。本巻最大の読みどころはここにある。
 武田信玄西上の話は家康にとって最大の事件といえる。時に家康30歳。信玄はすでに晩年で、その半生の総仕上げとしてかねてよりの念願である京都制圧の遠征を起こすのである。姉川の戦いで、家康麾下の三河武士団の精強さは天下に鳴り響いたが、信玄の甲府出陣の報に接した家康の心中を「胃が絞りとられるような痛み、吐き気がする。緊張と重圧、恐怖に体が悲鳴を挙げている」と作家は描く。信玄はそれほどまでに圧倒的な存在だったのである。

 信長が西の敵に備えるために、東の信玄と手を組むこともありえた。家康がこれを防ぐには、信玄との対決姿勢を明確にし、信長に、信玄を採るか家康を採るか、捨て身になって決断を迫る必要があった。計略を一歩誤れば、信長を敵に回すことになりかねず、計略が信長の気付くことになれば、即座に首を刎ねられることも。危うい賭けであった。ここにおいて、家康は自身が本当に恐れているのは信玄ではなく信長だと知る。 
 元亀3年(1572)12月、遠江の三方ヶ原で、家康は信長の支援を得て、上洛を目指す武田信玄の大軍と対決するも、惨敗。浜松城に逃げ帰る。
安部龍太郎独自の視点も新鮮である。元亀元年正月、信長による「上洛命令」に対して朝倉義景が拒否したことの真相について、信長は新将軍の知行安堵という形で諸大名から港や市の支配権を取り上げようとした。朝倉義景が頑強に上洛を拒んだのは、信長の命令に従ったなら、朝倉家の命綱というべき敦賀と小浜の二つの港を取り上げられることが分かっていたからだとする。この解釈は斬新かつ明瞭で従来の説とは一線を画す。
俗に言う信長包囲網を仕掛けたのは将軍義昭であるかも然り。元亀元年の浅井長政離反の真相も、然り。秀吉の代表的な武功とされる「金崎の退き口」の真相も、然り。読みどころ満載である。読者諸氏は自らひもといて安部流戦国史観を味わっていただきたい。
 安部版戦国絵巻の集大成ともいうべき安部龍太郎の『家康』は徳川家康の生涯を描き切った大河歴史小説になろう。

 ここで、半世紀前に、空前の家康ブームを引き起こした山岡荘八の『徳川家康』(全26巻)に触れないわけにはいかない。
徳川家康』は「北海道新聞」など新聞三社連合系の地方紙数紙に、昭和25年(1950)3月から昭和42年(1967)4月まで足掛け18年に渡り連載された超大作で、それまでの狸親父家康のイメージを一変させ、卓絶した国家経営者としての家康像を造形した作品である。
 半世紀を隔てて佇立する山岡家康と安部家康に共通するのは、奇しくも、平和国家建設のために邁進する家康像である。
 信長ほどの見識も苛烈な実行力もない家康だが、三方ヶ原の戦いの直前に、遠江三河といった立場の違いでいがみ合うようになった徳川勢を見て、「厭離(おんり)穢土(えど) 欣求(ごんぐ)浄土」と大書した本陣旗を造り、家臣団を一つ心に纏めている。
信長の同盟者として「天下布武」実現の先兵となって戦う家康だが、征服主義とも言うべき信長の方針、手法とは違う地道なやり方で、国造りを目指す青年期の家康を活写しているのが、『家康(二) 三方ヶ原の戦い』である。
                                                      (令和2年9月14日  雨宮由希夫 記)