雨宮由希夫

書評『光秀の忍び』

書名『円也党奔る 光秀の忍び』
著者 早見 俊
発売 中央公論新社
発行年月日  2020年7月15日
定価  ¥700E

 

円也党、奔る 光秀の忍び (徳間文庫)

円也党、奔る 光秀の忍び (徳間文庫)

  • 作者:早見俊
  • 発売日: 2020/07/09
  • メディア: 文庫
 

 

 明智光秀といえば「本能寺」だが、本作品は、姉川の合戦の2年後の元亀3年(1572)7月ころから、足利義昭が京都を追放され、「天正」と改元されるまでを歴史背景とした時代小説である。
 「天下布武」の道を驀進する信長だが、元亀から天正に至る数年間、信長は四面楚歌の危機的状況にあった。いわゆる信長包囲網である。信長は四方に敵を抱えた上に、都では将軍家に陰謀を巡らされている。信長の苦境の源は武田信玄にあった。信玄が立つからこそ、浅井、朝倉、一向宗徒、六角の残党らが兵を挙げたのである。

 さて、本書のスタート。元亀3年(1572)7月、朝倉義景浅井長政を援護すべく2万の軍勢を率い、小谷城近くの大嶽山(おおずくやま)に陣を構えている。難攻不落の小谷城を見据える虎御前(とらごぜ)山の信長本陣では、信長は光秀の意見を待っている。当時、光秀は前年9月の比叡山延暦寺焼打ちの功で近江滋賀郡を拝領し坂本に築城していた。信長ならば、民が笑って暮らせる平穏な世を招き寄せることができると信じる光秀は、そのためにはこの世を業火で焼き尽くす荒療治が必要であると、信長の鬼畜の所業を認めている。光秀は語る。「没収した延暦寺の所領の一部を手土産として、朝倉に兵を引かせます」と。撤兵を請け負った責任を問われるのを覚悟で、織田軍団の諸将の前で言い放つ。

 光秀を支えるのが書名に現れる「円也(えんや)党」、光秀の諜報機関である。その首領の遊行僧・百鬼円也(なきりえんや)は光秀が斎藤道三が息子の義龍に討たれた際に牢人し越前に逃れ、越前国坂井郡長崎村にある時宗の寺院、称念寺(しょうねんじ)門前で寺子屋を開き糊口を凌いでいた頃からの昵懇の間柄。美濃国明智荘の生まれの円也はいつしか光秀と親しくなった。円也には、遊行僧の一舎(いちしゃ)、修験者の妙林坊(みょうりんぼう)、比丘尼集団を率いる茜(あかね)、 牢人の来栖(くるす)政次郎(まさじろう)など、優秀な配下がいる。光秀は彼らを円也党と呼び、頼りとしている。光秀は策を弄するに円也党を使うのである。

「大嶽山の朝倉本陣に行き、越前への撤兵を企ててくれ」、「義景の子阿君丸の命を奪え」、「義景から疎んじられているらしい朝倉家中の奉行衆前波(まえば)吉継(よしつぐ)を寝返らせよ」等々。
 彼らは光秀が欲する役目を果たすべく光秀の期待以上に働いてきた。変装の名人の円也は、ときに光秀に成りすます。物語の後半で、武田勝頼(たけだかつより)に成りすました円也が信玄を謀殺するシーンも。
 無人斎道有こと武田信虎(たけだのぶとら)の造形にも引き付けられる。都大路風林火山の旗が翻ることを悲願とする信虎は30年ぶりの信玄との親子対面を策すが、果たせぬと知るや、孫の勝頼に「信長を滅ぼし、天下を取れ」と。
元亀3年(1572)10月、信玄は2万5千の軍勢を率いて甲斐を出陣。が、円也党の働きで朝倉勢はすでに越前に引き揚げている。信玄は義景の撤兵を裏切りだと詰る一方、12月22日、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで徳川(とくがわ)家康(いえやす)を完膚なきまでに撃ち破る。朝倉勢が越前に引き揚げ、信長がほっと安堵したのも束の間だった。信玄恐るべし。信長の危機は信玄の西上によってこれまで以上に深刻なものとなるばかり。光秀の指令を受けた円也は信虎と共に武田勢に接触を試みる。
 年が明けた元亀4年(1573)信玄が鉄砲の流れ弾に当たったという噂が流れ始める。ついに武田軍の西上は中止され、信長は危機を脱した。
「義昭公がおわす限り、信長公の基盤は固まらぬ。義昭公は天下静謐にとって大きな妨げなのだ」と認識している光秀は、「足利将軍家が京の都にある限り、戦乱は終わらず、闇は晴れない」と信長に、義昭追放を献策する。たとえ信玄が没しても、義昭が信玄に代わる大勢力として、義昭が、例えば上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)に信長打倒を要請することは自明のことであった。
 義昭を都より追放するために、光秀は信長に、「公方様には信玄が生きている、必ずや上洛の軍を催すと信じさせるのです」と。

 一方で、光秀は細川藤孝(ほそかわふじたか)に「上様を裏切り信長公へ寝返ること」の決心がついたかと迫る。織田家の譜代でもない光秀が越前の朝倉家で藤孝と出会っていなかったら、信長に仕えることもなく、秀吉と並び立つほどの地位を占めることも望めなかったはずである。義昭を擁立した信長を天下人へと担ぎ上げたのは、光秀と藤孝の二人三脚があったればこそである。躊躇する藤孝を前にして光秀は語る。
「戦国の世、いかにして生き残るか模索する日々でござる。己の判断一つで家名が保たれ、滅びもする」。藤孝へのこの光秀の語りからは、かつて朝倉義景の撤兵を請け負った際に円也に語った、「牢人の身からの成り上がりだ。城と領地を取り上げられたとて、元に戻るだけだ。それよりも、私は己の誇りを失いたくはない」の言葉とともに、光秀の誇り、矜持がたしかめられ、ひいては光秀がなぜ本能寺の変をおこしたかの心情を連想せずにはいられない。運命そのものというべきか、後に光秀は藤孝の判断一つで滅びゆくのであることを後世の我々は知っている。
 義昭を裏切ることを決心した藤孝に、光秀は「上様(=義昭のこと)、そして近臣方には信玄重傷のことを伏せ、武田勢の勢い留まるところを知らず、春には都に達する勢いであると、お伝えいただきたい」と。
 かくして藤孝は、死んだも同然の信玄の軍勢が実は死んではいないと虚言する。果たして義昭は4月と7月、二度にわたって信長打倒の兵を挙げた。二度目は許さない信長によって、義昭は京都より追放され、天正改元される。
 信玄の死は秘されたが、義昭が信玄の生存どころか上洛を信じて疑わなかったのは戦国史の謎である。義昭が二度も兵を挙げたのは、武田信玄上洛を信じていたからであり、義昭に信玄上洛を信じ込ませたものは何か、――と作家は振り返りつつ、物語を綴っている。
元亀から天正改元された年の円也党の働きが、信長を滅亡から救ったのである。円也とその一党の働きは歴史の表面には決して現れない。
ラストシーンは、光秀が「円也党の働きで信長公は天下人だ」と語り、円也が「信長を天下人に押し上げたのは、あくまでも明智十兵衛光秀」と返す。笑顔と沈黙の後、二人が腹を抱えて笑うシーンである。
やがて光秀が魔王織田信長の先達となって骨身を惜しまず忠節に励んできたことを後悔する日が巡って来ることを知るや知らざるや。
早くも、続巻がたのしみである。  

 実は、早見(はやみ)俊(しゅん)には本能寺の変を中心として信長を操り、見限った男・明智光秀を描いた作品『魔王の黒幕 信長と光秀』 (中央公論新社 2020年7月25日刊行)がある。丹波亀山城から本能寺に進軍する数時間に光秀の生涯を凝縮させた歴史小説である。同時期に書かれた、歴史小説と時代小説の、これら2作品を併読すれば、「光秀とは何者か」を希求する作家の端倪すべからざる広大な意図の一端を知ることができるだろう。

 早見俊は1961年岐阜県岐阜市生まれ。法政大学経営学部卒業。「居眠り同心影御用」「佃島用心棒日誌」で第6回歴史時代作家クラブシリーズ賞を受賞。

                (令和2年9月13日 雨宮由希夫 記)