雨宮由希夫

書評『誰?』

書 名   『誰?』
著 者   明野照葉
発行所   徳間書店
発行年月日 2020年8月15日
定 価    ¥770E

誰? (徳間文庫)

誰? (徳間文庫)

 

 

 冒頭に断っておくが、本書は歴史時代小説ではない。昨2019年の梅雨の頃から、台風19号の去った10月頃までを背景とし、東京中野区を舞台として生きた一人の女を主人公とした小説である。当然、主人公は創作上の人物だが、凄まじき生の軌跡を追っているノンフィクションを読んでいるかのようで一気読みさせられた。
 読了した今、こうした「日常」に居場所のない女の典型を過去の歴史上に求めるとすれば「誰?」とは誰であろうかと、ひとり妄想している。
 この「誰」は平然と「弱き者」の仮面をかぶり、「女が男をカモにして、何が悪いの?」とばかりに狙った獲物をしとめるのだ。仮面を外した時、見える容貌はいかなるものか。ある意味、悪逆非道な鬼畜より、不気味で身の毛がよだつ。
 女は偶然の出会いを演出して、これまでに、多くの人の生命財産を脅かしてきたが、本書で女の餌食になるのは沢田隆(さわだたかし)、小林瑞枝(こばやしみずえ)、友野直也(とものなおや)の3人である。

 女の名は晴美(はるみ)。「第一章 歳上の男」において、彼女は東中野に住む武藤晴美(むとうはるみ)38歳として姿を現す。最初の鴨は7月末に71歳になった沢田隆。5年ほど前に一流企業を定年退職。妻を亡くしたが、息子がいるから、天涯孤独とは言えないが、息子は独立してこの家から出ていった。70過ぎの男の一人住まいである。一人で老いて、一人で惨めに死んでいくのかと、孤独感に苛まされて悶え苦しむ沢田が晴美と出会ったのは、近所の居酒屋だった。晴美との接点と縁は同じ東中野住まいだけだが、いわゆる独居老人の沢田は親子ほども年の離れた晴美に心奪われる。老いらくの恋、特に若い女には気を付けた方がいいと注意する人もいたが、沢田が心と体の単純ではない関係になっていくには、多くの時間を必要とはしなかった。

 「第二章 歳上の女」では、晴美は新井薬師に住み、工藤留美(くどうるみ)と名乗っている。晴美の新井薬師でのカモは、9月で59歳となる歳上の女・小林瑞枝(こばやしみずえ)。新井薬師在住、夫と二人暮らしの専業主婦。二人の子を育てるが、一人は結婚、一人は独立。やっと育て上げたと思ったら、当たり前のように家を出て行ってしまった。私の20数年はなんだったのだろうと孤独感にひたる毎日を過ごしている。
 留美が難儀な病気を抱え、生活保護を受けながら、新井薬師の小さなアパートで一人つましく健気に生きていると「不幸を絵に描いたような女」を演じているとも知らず、留美との出会いを運命的なものとする瑞枝は、留美は神が孤独な瑞枝に遣わしたエンジェルであり、その留美の世話を焼くことに生き甲斐を感じる女になっていく。

 一転して、「第三章 歳下の男」では33歳の編集者・友野直也がカモとなる。
東中野に住む直也に、晴美は沢田に接すると同様「武藤晴美38歳」と名乗り、「ペンネームは吉井順子のフリーライター。住まいは東中野のマンション。同じ業界で仕事をしている人間」として接近する。二人は急速に親しくなる。直也にとって晴美は直也に無償で肉体も提供してくれるありがたい存在だが、晴美にしてみれば、70過ぎの老人の萎れた一物を咥えこむセックスよりも、年下の若い男とのそれが愉しいことは当然で、晴美から体を直也に提供している。
 このようにして、晴美の前に、カモった相手として沢田隆、小林瑞枝、友野直也が現れ、釣り上げた魚と化す。晴美は人の孤独にとびきり鼻が利き、孤独にもがき苦しんでいる人が分かる。そうした人を物色し、「これ」と見定めた人物の情報を集めて、近づくのだ。決して、偶然の出会いではない。
 沢田も、瑞枝も、直也も皆、晴美の思惑通り、すんなり晴美の術中にはまる。実のところ彼らは晴美の身元、素性をよく知らない。晴美はあるときは「父は3歳の時に、母は25歳の時に亡くした。伯父はいるが兄弟姉妹もいない孤独の身の上」。ある時は、「6歳の時、両親 交通事故で亡くす。叔母病死。以降、天涯孤独」。あるいは
「4歳の時、父 首くくり。5歳から8歳まで、母佳子の再婚した相手にからだを弄ばされる」と身の上話を真に迫った嘘で偽造している。

 ある日ある時、晴美にとって想定外のことがおこる。
 晴美がはじめて沢田の家に泊まりに来た翌日であった。東中野の駅前近くで、中年女性が晴美を馴れ馴れしく「ルミちゃん、ルミちゃん」と声をかける……。
 瑞枝は、ある時、たまたま出かけた東中野で、思いかけず留美と行き会う。傍らには留美とは不釣り合いの年恰好の男性が……。
 かくして、沢田も瑞枝も、晴美の嘘、演技、詐病、そのことに遅まきながら気が付き始めた。沢田は晴美を留美と呼ぶ中年女性の存在がどうにも気になって、重ねて晴美に尋ねてしまった。瑞枝も同様だ。そうした時、晴美はまるで文鳥のような顔と首の傾け方で「ふふっ」と笑う。苦笑交じりに小さく息をつくような仕種をみせつつ、何を訊いてもすらすらと答え、いろんなことをペラペラしゃべって、人を信用させるのだ。「あの人は、内科のお医者さん。代田橋内科クリニックの沢田隆先生」とは瑞枝に語った嘘である。沢田は医師にされてしまう。
 新井薬師東中野の部屋を借り、二つの土地を餌場にする晴美にとって、沢田も瑞枝も、晴美の撒いた餌に食らい付いてきたカモであって、仕掛けの最中の、まだ釣り上げた魚ではない。ここでしくじるわけにはいかない。
「言葉が喋れるようになったぐらいの頃から、嘘をついていた」晴美には虚無感溢れる独特の「哲学」がある。哲学要綱は二点に絞られる。
「どう頑張ってみたって、現実や日常なんてつまらないものだ。それこそ退屈な日常を自分の好きな舞台に変えたい」。「真実など、知ったところで意味はない。なぜなら真実というやつは、往々にして残酷なものだからだ。その先にあるのは、底のない闇みたいな暗い絶望だけなんだから」。
 加えて、晴美には、自らは夢と幸せを売る側の人間であるという自負心があった。そうした晴美から見れば、沢田らは夢を買う側の人間にすぎず、したがって、「お前らは黙って甘い夢を見ていればいい。私の現実や事実、真実なんて探らないことよ。にもかかわらず、みなもっと知ろうと踏み込んでくるのは何故」ということになる。
 瑞枝は留美を愛し留美に執着しているだけに、しつこく嗅ぎまわって晴美を追及してくる。少々ことを急がねば、と晴美は焦り出す。
 ついに、晴美が沢田に激しい性交を強要して、死に追いやる。一番旨味のある金蔓の沢田が「爺転がし」の名のもと、最初に始末される。「沢田さん、恨むならあの女、瑞枝さんを恨んで」。これが、この時の晴美の捨て台詞である。
 晴美は金だけが目当てではなかった。複数のキャラをうまく分け、演者としてパフォーマンスすることを楽しんでいるにすぎないのだ。

 終盤は「爺転がし」の果ての東中野からの脱出劇である。
 東中野の家で「孤独死」している沢田が発見される。沢田の死には謎と疑問があった。「謎の女性」がとりわけ大きな謎としてうかび、「30代後半の女性」の特定が急がれた。晴美は東中野新井薬師の部屋をたたんで、この土地を離れた方がいいと判断する。

「エピローグ」では、若くして死去したとされた晴美の父母は健在で、晴美は生年を5年も若く詐称して「永遠の38歳」を称したことが明らかになる。「嘘という革袋をすっかり焼き尽くされて骨となった晴美」に、「もっとすごい嘘がつきたかったな」と吐かせる。なんと凄まじいエピローグであることか。

 作家は猛女怪女と被害者たちの出会いの軌跡を物語に仕立て上げる。読者は尋常ならざる情景に刺激されていく。読み始めて間もなく、手のひらにじんわりと汗が滲み出て来るであろう。被害者たちと同様な、晴美の掌で踊らされることの元となる、身に覚えがあるあの感覚がよぎってくるのである。例えば、沢田と瑞枝に共通するのは、孤独なこと。背景には二世代すら同居できない現代日本の住宅事情がある。我が子に見捨てられた沢田と瑞枝のような「隣人」は東京に限らず、私たちの隣の、全国どこにも存在する。「誰?」とは、主人公晴美であろうが、こうした「隣人」のことでもあるか。現代日本の病根を抉る佳品である。

 明野(あけの)照葉(てるは) は1959年、 東京都中野区生まれ。1982年 東京女子大学文理学部社会学科卒業。1998年「雨女」で第37回オール讀物推理小説新人賞を受賞し、デビュー。2000年『輪(RINKAI)廻』で第7回松本清張賞を受賞。
           (令和2年8月17日  雨宮由希夫  記)