頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第18回「江戸藩邸へようこそ」(インターナショナル新書)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー18

江戸藩邸へようこそ 三河吉田藩『江戸日記』」 (久住裕一郎、インターナショナル新書)

 

 寛政の改革を主導した松平定信が、幕閣を去ったのは寛政5年7月です。しかしながら、その後の幕政に大きな変化はありませんでした。
 それは、後を引き継いだ老中松平信明(のぶあきら)、牧野忠精等が、定信の政治方針を守ったからです。「寛政の遺老」と呼ばれる彼らのうち、松平伊豆守信明が、本書で取り上げられている三河国吉田藩主です。信明はその名の通り、知恵伊豆と異名を取った松平伊豆守信綱の子孫で、代々伊豆守に任じられてきました。
 三河国吉田とは、現在の愛知県豊橋市です。松平伊豆守家は、紆余曲折を経て、寛延2年(1749)以降明治維新まで吉田城主でした。
 松平伊豆守家は、初代信綱、四代信祝(のぶとき)、七代信明、八代信順(のぶより)と4人の老中を輩出していますので、その間上屋敷は西丸下にあります。老中を退くと引っ越しますので、上屋敷の変遷は延べ12回に及びます。谷中、北新堀、深川の下屋敷には大きな変動はなかったようです。
 江戸の藩邸は、「御殿空間」と「詰人空間」というエリアに分かれていたようです。「御殿空間は、政務や儀礼の場である表御殿(表向)と当主や妻子が日常生活を営む奥御殿(奥向)、「詰人空間」は藩士とその家族等が暮らす長屋群、藩の公的施設がありました。本書では、柳原柳川町時代の吉田藩上屋敷が紹介されています。併せて、谷中の下屋敷も。
「火事と喧嘩は江戸の華」といいますが、とにかく火事は多かったようです。吉田藩江戸藩邸の火災記録が紹介されていますが、なんと42回にものぼります。避難や消火、再建にと、当時の藩邸に務める人たちは大変だったことと思います。
 そんな吉田藩江戸藩邸ですが、当然事件も起きます。本書では「江戸藩邸事件簿」(第三章)として紹介されています。いくつかあげてみましょう。
吉田藩では、約59年の間に184件の脱藩が記録されているようです。内訳は江戸が143件、吉田が41件。圧倒的に江戸が多いですね。江戸脱藩者の内訳は、士分87件、徒士39件、足軽17件となっています。
 うち、明和元年(1764)11月馬廻の海法沙門は、一家全員で脱藩しています。記録がないのでその理由は不明ですが、筆者は経済的な理由とみているようです。
 宝暦10年、松下四嘉右衛門の息子妻治(27歳)は、江戸で武家奉公の経験を積みたいと江戸へ出てきますが、不良行為が目立つようになり同12年脱藩します。後に許されて帰参し、藩主にお目見えしますが、そのときは43歳になっていたそうです。
 文化元年(1804)5月、藩邸の土蔵から174両という大金が紛失しました。さて、犯人は誰だったでしょうか? 鼠小僧ではなさそうです。興味深いのは、留守居が南北町奉行所へ盗難届を出していることです。

 本書はその他にも、藩邸で働く武士の実態(第二章)、藩邸の奥向きのこと(第四章)、明治になって藩邸から子爵邸へ変わったときの逸話(第五章)等々藩邸を巡る様々なことを取り上げています。
 江戸の大名屋敷がどうなっていたのか、併せて、そこに暮らす人たちへの思いを馳せるのも面白いのではないでしょうか。

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