頼迅庵の新書専門書レビュー13
『地図で考える中世 ―交通と社会―』(榎原雅治、吉川弘文館)
歴史・時代小説を書くためには、その時代の景色や生活を理解する必要があります。日本の中世を舞台に、あるいは背景にした作品はそれほど多くありませんが、歴史学の分野では中世史の研究が活発になって多くの成果が蓄積されてきました。では、その頃の都市や交通はどうなっていたのでしょうか。「交通と社会」という副題を持つ本書は、そのことを考えるうえで興味深い専門書です。
本書は、4部11章(序章を含む)と補論2つから成る367ページ(あとがきを含まず)に及ぶ専門書です。それぞれ関連はありますが、もともと独立した論文として発表されたものです。研究者ではない私には、単なる紹介しかできませんが、読んでいて様々な刺激を受けることとなりました。中世の人馬の動きや宿泊、旅館等に興味がある方は、ぜひどうぞ――。
本書は「13世紀から16世紀半ばころまでの陸上交通の具体的な様子を検討することによって、中世日本社会の一端を垣間見ること」を目的としています。序章で「連釈之大事」という文書に注目しますが、これは中世の行商人である連雀商人(注1)に伝わった秘伝書で、そこには当時の小都市(注2)の構造を示した図があるのです。
本書では、それを「宿立図」と再命名(注3)し、このような中世都市が実在したのかをまず検討しています。そこには、宿(小都市)の両端を阿弥陀と薬師で結界し、門外に旦過屋と風呂屋が描かれているのです。宿の大きさは360ヒロ(注4)、広さ12ヒロあると記されています。
第1部第1章では、海道の近江国守山宿、柏原宿、尾張国下津宿(斯波氏の守護所)、萱津宿(中世東海道で最も賑わった宿の一つ)、遠江国見附宿(入り海で今之浦に面した湊町)、藤枝宿、相模国葦河宿、酒匂宿(鎌倉に最も近い宿)を昔の絵図や地図などから検討し、いずれも東海道に沿って伸びる軸線(町並み)を持っていること、阿弥陀如来や薬師如来を本尊とする、あるいは所縁のある寺などがあることを論じています。宿立図にある構造と同じだということです。
また、三河国矢作川西岸の矢作西宿(東宿は、鎌倉時代三河国の守護所)、豊川西岸の渡津宿、天竜川東岸の池田宿を検討します。これにより東海道が横断する河川には、その両岸に宿があり、町並みは東海道ではなく、渡るべき河川と平行し、東海道とは直交する形で存在していたことが分かります。当時、橋が架かっている河川は珍しく、多くは船で渡るか浅瀬を見つけて歩いて渡っていたようです。
ただし、阿弥陀と如来で結界された宿は、「尾張、三河、相模では見いだせるが美濃では見いだせず、遠江で2例、駿河で1例のみ」でした。
山陽道の宿では「宿立図」に「合致する事例は1つも見いだせない」ことから、第2章では、鎌倉街道上道((注5)以下「上道」と略します。)の宿を検討しています。
阿弥陀と薬師を検出できる事例として、小野路宿(現町田市小野路)、関戸宿(現多摩市関戸)、久米川宿(現東村山市久米川町)、入間川宿(現狭山市入間川)、女影宿(日高市女影)、苦林宿・大類宿(入間郡毛呂山町川角・大類)、大蔵宿(比企郡嵐山町大蔵)、奈良梨宿(比企郡小川町奈良梨)、塚田宿・高見宿(本庄市赤浜・高見)、児玉宿(本庄市児玉町児玉)、板鼻宿(安中市板鼻)を取り上げます。
上道は東海道と同様あるいはそれ以上に「宿立図」の描く小都市の理想空間に合致する事例が多いようですが、上道の支線である下野線や川越街道では見いだせないようです。
第3章では、三河国山中郷の土地台帳名寄帳や上州下室田の町割図の検討等を通じて中世の宿は、幹線道に沿って500~700メートルにわたって片側30軒程度の在家が並び、一軒の在家の敷地は、間口10~13間程度であったこと。それぞれの在家は、建物の周囲に作業庭をもっていたと推定しています。(注6)
また、法隆寺僧快訓の日記(延徳2年(1490))によると、当時の「宿賃」が300文から800文であること、食事(「旅籠」というらしい)が供されていたこと、50~100文程度の「座敷賃」を支払っていたようです。本書では、座敷賃とは、庭の使用料(馬つなぎ等)ではないかと推測しています。
第2部では、そうした宿を誰が作ったのか、中世社会の中にどう位置づくのかを検討しています。
第1章では、室町期の旅ではしばしば寺院が宿泊所として利用されていたこと、小栗判官伝承から時衆やそれに共感した人々によって社会的弱者のための宿送りも中世社会に広がっていたこと等、時衆の活動と交通へのかかわりを検討し、時衆たちが交通路の物理的な構築、宿送り、宿泊施設の経営などに関わっていたとしています。
また、播磨西部東大寺領矢野庄内(山陽道)の二木宿を取り上げ、小河(二木)氏は、その二木宿の長者で、交通・運輸にも関与していた地元の武士でもあり、それによってなした財を元手に荘民対象の金融、守護から人夫挑発があった場合の減員交渉や必要人員の雇用、荘園領主に対する年貢の代納など多様な活動を行っていたことを紹介しています。(注7)
第2章では、鎌倉後期に始まった三河の浄土真宗が、戦国期には東海道や矢作宿の水系を通じて、奥三河高原の谷々や、下流の平野部の村々に浸透していた様子を見ながら東海道の宿は、東西の陸路だけでなく、南北の水上交通の接点でもあったと結論づけています。
第3章は中世の旅館等の概観です。事例等を検討し、それぞれ次のように述べています。
① 鎌倉時代には遊女自身による宿泊施設があり、宿泊を許すかどうかを判断していました。また、他の生業もあわせた者の影響する宿泊施設が並んでいたのです。
② 南北朝・室町期になると屋号をもった専業の旅館の存在が見られるようになり、奈良は転害大路や今小路、伊勢の宇治や山田(御師の経営、京都では三条や五条あたりに建ち並んでいました。また、馬を提供する旅館もあり、そのうえ、飛び込みだけでなく予約しておくシステムもあったようです。ちなみに、有馬の町には、二階建ての旅館が建ち並び、二階を客室とし、一階は家主の住居としていました。
③ 宿の長者同士の婚姻関係をともなった情報交換のネットワークがあり、それが強力な統治能力を欠いた地域でも円滑な陸上交通が可能な状況を生み出していました。つまり政治的に不安定な地域でも旅にそれほどの支障がなかったわけです。
④ 旅館は旅行者に宿泊場所や食事を提供するだけではなく、馬を所有し、近辺の住人に貸して馬借としての営業をさせるような活動も行っていました。
⑤ 宿から宿まで送夫、兵士をつけて送り届ける宿送りが、幕府の命令だけでなく礼銭を伴う依頼があれば、守護や被官たちによって宿送りの兵士が手配されたのではないかと述べています。さらに、兵士が山中やその入口で雇われ、そのまま鎌倉や京都の近傍まで護衛してきたことは十分考えられるし、それは当然、山賊とは裏腹の関係であったろうと述べています。つまり、安全に旅をするには、相応の通行料が必要だったというわけです。
⑥ 旅館は、また領主支配の拠点でもあったようです。
第3部は、阿弥陀と薬師に加え、旦過と風呂を結界に持つ町場を検討していますが、読むと有馬温泉(当時は湯山宿)の繁栄に驚かされます。
第1章では、旦過と湯屋について検討しています。旦過とは、本来禅宗寺院において、諸国を修行する僧が、宿泊するために設けられた施設のことです。(注8)
本書では、瑞渓周鳳の『温泉行記』等の文献史料から摂津国の温泉町湯山(有馬)の宿の入口に無垢庵と呼ばれる旦過が存在したこと。併せて、「タンカ」が地名に生きる地として、①熊本・二本木、②小倉・旦過市場、③今津(福岡)、④姪浜(福岡)、⑤備前福岡、⑥海津(現滋賀県高島市)、⑦南部(現和歌山県みなべ町)、⑧名手市場(同紀の川市)、⑨下諏訪、⑩青柳(現長野県筑北市)を紹介しています。ただし、九州が圧倒的です。
また、東海道や上道の宿とは、阿弥陀と薬師で結界していること、熊野修験や時衆の影響が認められる点は共通しながらも、上記の旦過のある町は、家々がまとまった(塊村)形態であり「宿立図」にある家々が並ぶ(軸線)形態とは異なっているといいます。
旦過のある町は、塊村形態の小都市が港町だけでなく宿にまで及んでいることから、旦過、湯屋、阿弥陀、薬師を配する思想のほうが、先により広く展開しており、後に鎌倉を中心とした幹道においても「宿立図」に定式化された宿町が整備されていったのでないかと推論しています。(注9)
さらに、東海道や上道の宿町は、後の「連雀町」の分布範囲とおおむね一致しており、「宿立図」と関連深い連雀商人を城下町に定住させることができる政治権力を想定し、「宿立図」に基づく宿町の建設時期を鎌倉末から南北朝期までとしています。(注10)
第2章では、都市空間の宗教性について展開しています。
中世末期の連雀商人は、自分たちを修験者の子孫であると認識していたことから、香具師を取り上げます。そして、売薬と修験の関係を探り、熊野修験の思想に基づいてデザインされた都市空間が宗教性を帯びることによって、都市は交易や旅行者の止住に必要な平等原理によって律せられた場となりえたのだといいます。
阿弥陀、薬師、旦過、風呂で結界された空間においては、人々が世俗の身分と関係なく行動することが保証されていたといい、交易都市においては、この原理が、そこを交易の場として成り立たせるために何よりも必要だったのではないか。西日本の港町にこの4つの表象で結界された場が目立つのは、そのためであろうと推論しています。
ただ、「平等」の場は、平和な空間であることを意味せず、逆にそこは順番を争う喧嘩、騒擾と隣り合わせの場だったとも述べています。(注11)
最後に、旦過は香具師の「たんかをきる」のたんかに通じるが、その語源はわからないといいながらも『日本隠語辞典』から「仁義と啖呵。雲水という行脚僧が寺々を回って、宿を乞う玄関先の口上が最初だといわれる。その口上が上手にできると、旦過(たんが)という泊まり部屋に通される。もし上手に口上が言えないと、ののしられて追い返される。これから「啖呵を切る」という言葉が生まれたという。これによれば、啖呵は旅宿の室名になる」という興味深い説を紹介しています。想像力を刺激される説です。(注12)
第4部は東海道沿道地域の変遷と開発の関係を補論1は足利義教の富士紀行を補論2は摂津国の山陽道の宿について検討していますが、長くなりましたので省略します。
以上、今回はやや難しい専門書の紹介でしたが、中世の豊かな世界に興味を持っていただければ幸いです。そうした世界をもとに魅力的なキャラクターと豊饒な物語が生み出されることを期待して。
(注1) 『連釈之大事』の始めに「国相伝之事」として、「天竺ニテハ本釈ト名付ク三蔵法師の玄奘大般若経をセヲイ給フニ(中略) 唐土ニテハ別釈とト名付ル事ハ善道和尚経をセヲイ給フニ(中略) 日本ニテハ連釈ト云フ事ハ(以下略)」とあって連釈について述べています。商品の入った千駄櫃を背負うことから、「連雀」をこの連釈に求めたものと思われます。
(注2) 中世の都市というと、京都、奈良、鎌倉、博多辺りを思い浮かべます。宿を小都市というとやや戸惑いますが、「都市的な場」に関する研究の延長で、宿などを小都市と呼んでいるようです。
(注3) 従来は「市立図」と呼んでいたそうです。
(注4) 「ヒロ」とは、人が左右に手を伸ばした長さのことをいいます。現在では、使う人はほとんどいないのではないでしょうか。
(注5) 「鎌倉街道」は近世になってからの呼称で、中世史料には「鎌倉道」「鎌倉大道」「武蔵道」などと書かれているようで、研究者間でもまだ確立した呼称とはなっていないようです。
(注6) 約600メートルが、360ヒロに相当するようです。
(注7) 日本昔話によく登場する「長者」とはどのような存在だったのか、私にはまだ具体的なイメージがつかめません。
(注8) それが、いつしか本堂と独立して旅人の旅宿に開放され、やがて、俗家にも宿泊所として利用され、俗家の建立にかかるものも出てくるという新城常三氏の論を紹介しています。
(注9) 永和3年(1377)作成の三河国山中郷の土地台帳名寄帳では、馬五郎、孫三郎等○郎、左近二郎等△△○郎、弥七、願阿弥、重安尼、藤内入道等の名前がありますが、およそ300年後の寛文10年(1670)の上州下室田の町割図では、助左衛門、弥五左衛門等○(または○○)左衛門、治兵衛、多兵衛等○兵衛、藤右衛門、又右衛門等○右衛門、平蔵、七重郎等の名前があり、女性と思しき名前はありません。興味深い変化だと思います。
(注10) 西日本の塊村形態の小都市(宿)の存在 → 旦過、湯屋、阿弥陀、薬師が共通していること → 宿には、旦過、湯屋、阿弥陀、薬師を配するものである(という考え方の浸透) → 「宿立図」に定式化 → 鎌倉幕府や鎌倉府による建設、整備という流れになるのでしょうか。
(注11) それゆえに、世俗の政治権力とは異なる権力(顔役等)の存在が、想定されるのではないでしょうか。
(注12) 股旅小説や仁侠映画で名高い「仁義をきる」ことが、禅宗(雲水)に淵源を持つと考えると日本における仏教の影響には、感慨深いものがあります。