書名『田中家の三十二万石』
著者名 岩井三四二
発売 光文社
発行年月日 2021年2月28日
定価 本体1800円(税別)
表題は『田中家の三十二万石』である。「田中」というありふれた苗字を冠した家の何の話か思う。田中吉政(よしまさ)と言われて、戦国から江戸前期の武将で、関ヶ原の戦いで敗北した石田三成を捕縛した男であると答えることのできる人はかなりの戦国通であろう。
『光秀曜変』(明智光秀)、『三成の不思議なる条々』(石田三成)、『天命』(毛利元就)、『政宗の遺言』(伊達政宗)など戦国時代と人物をテーマに数多くの歴史小説を描いてきた著者の最新作は一般的にはなじみの薄い人物であろう田中吉政(1548~1609)を主人公にした作品である。
物語は近江国浅井郡三川村の、五反の田畑しかない貧しい百姓久兵衛(のちの吉政)16歳がただ苦境を抜けだしたい一心で、父の反対を押し切って侍になるところから始まる。浅井長政の家臣で宮部村の国人領主である宮部(みやべ)善祥坊(ぜんしょうぼう)継潤(けいじゅん)の家人となった吉政は合戦での手柄を求め、味方が止めるのも聞かず自慢の槍を振るって猪突猛進してゆく。
善祥坊は吉政の生涯に欠かせない、後のストーリーとも絡んでくる人物である。信長の浅井・朝倉攻めに際し、善祥坊が織田方に寝返った顛末が描かれる。
浅井・朝倉方が惨敗した姉川の戦いの後の元亀3年(1572)9月、善祥坊は横山城の木下藤吉郎(秀吉)の調略に応じ、織田家の配下となる。藤吉郎は寝返った善祥坊を見捨てない証にと、自分の甥・万丸(のちの羽柴孫七郎、関白豊臣秀次)を善祥坊に送ってきた。吉政はその万丸の守り役を善祥坊に命じられるのだ。
秀次は初め宮部継潤の、ついで三好康長(咲岩)の養子となり、やがては豊臣家の相続を約束されるも謀叛人として謀殺されることになるという数奇な運命をたどった人物だが、「この時にはこの万丸に自らの人生を左右されることになろうとは吉政はつゆ知らない」のは道理である。著者は、「そもそも近江でももう少し北に住んでいたら、善祥坊に仕えることもなく、したがって秀吉の配下になることもなかったろう」と描く。
「旭日の勢いで勢力を伸ばす織田家の、その中でも出世頭の秀吉。吉政にとって秀吉はまばゆいほどの栄達の道をつけてくれた福の神であった。秀吉の配下をはなれぬことだ。
秀吉に仕えたからこそ、石田三成との出会いがあった。一説によると三成の推挙によって吉政は秀吉に仕えたという。また、山岡荘八の『徳川家康』では三成は吉政の「昔からの親しい友」として登場するが、本書では、三成は「ひと回り年下の同郷者」であるにすぎず、秀吉についていきさえすれば、自分の夢はかなえられるとする吉政にとって、秀吉の側近中の側近の三成は大いに利用できる人物なのであったと造形されている。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で、「織田家は崩壊した」。吉政にとっては「信じられぬ出来事」が続くばかりだが、世の中が激変する中、信長の後継者として躍り出た秀吉は危ない橋を渡りつつ、天下人への階段を上っていく。それは吉政にとっては「まばゆい出世の道が開く」ことであった。「いままでも運にめぐまれてきたが、これからはさらに強い運が回ってきそうだ」と夢を膨らませる。
小牧長久手の戦いの後の天正13年(1585)に秀吉の養子の秀次が近江八幡43万石を与えられるや、吉政は秀次の付家老筆頭、3万石取りとなり、秀次との関係をますます強めていく。
天正18年(1590)、豊臣秀吉は関東の北条氏を滅ぼし、諸大名の配置換えを行う。三河・遠江などの徳川旧領をそっくり没収し、家康を関八州に封じ込めるや、秀吉は家康西上の進路を遮るべく、岐阜から駿河までに秀次の老臣衆を配置。吉政は山内一豊(掛川城)、堀尾吉晴(浜松城)らと共に、三河国岡崎城5万7,400石の所領が与えられた。吉政は生涯の夢であった城持ち大名となる。
文禄4年(1595)秀次切腹事件。関白秀次は秀吉に疎んぜられ、高野山に放逐されて自刃。秀次側近のほとんどが切腹させられ、秀次の妻妾、子女ら30数名が京三条河原で惨殺された。晩年の秀吉の老妄が地獄絵図さながらの凄惨な情景を生み出したのである。この事件は根強い三成陰謀説で語られることがあるが、本書では、吉政は秀吉の起こした禍の渦に「わしの運もこれまでかな」と唇を噛んだが、三成の助言もあり、連座処分を受けるどころか、加増され10万石の大名となる。
秀吉の死後は家康に接近し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは東軍に属した。が、吉政の立場は微妙であった。吉政は大坂方に寝返りするのではないかという疑惑の中で、「襲ってくる破滅の予感にじっと耐え」つつ、三成の動向を探る。関ヶ原の戦いは吉政にとっても「大名として生き残りをかけた戦い」であった。小牧長久手の戦いのように長引くと見た吉政が、一時は三成に勝たせたいとまで思う。吉政の心境の変化が面白い。
7月、下野国小山の陣。掛川城主の山内一豊が三成打倒の西上の軍をおこす家康に、掛川城を差し上げると申し出るや、これに吉政も倣う。東海道に配置された豊臣恩顧の諸大名がことごとく家康の足下にひれ伏す。
東軍勝利後、吉政は家康に三成捕縛を申し入れ、伊吹山中で逃亡中の三成を捕縛する大功を挙げた。これらの功により、外様大名でありながら筑後国柳川城32万石を与えられる。城持ちどころか、国持ち大名となった。
「人間、運次第やのう」と回想する吉政がいる。一方、武運に恵まれて出世していくものの、糟糠の妻は出世のために離縁するなど女房運はいいとは言えなかった吉政をも著者は活写している。これが後の改易の遠因となった。
吉政は慶長14年(1609)に没した。享年62。徳川家の示唆により家督を継いだ四男忠政が男子を残さぬまま死去したために、田中家は元和6年(1620)に廃絶されたなお、田中家断絶の後、筑後に返り咲いのは、関ヶ原の戦いで領地を完全に没収された立花宗茂であった。
「巻頭」で吉政の家人・宮川新兵衛が、寛永6年(1629)江戸、幕府老中の御用部屋で、語っている。「あんなしようもない男が大名になれたのも、戦国というおかしな世の中のせいでござろうて」。
百姓・足軽から身を起こし天下人にまで登り詰めた秀吉の生涯は書き尽くされた感があるが、天下人の目線ではなく、秀吉同様に卑賎の身から、初代筑後藩主となった田中吉政の目線から、かの時代を捉えているところが実におもしろい。 因縁浅からぬ吉政と三成の結びつきなど戦国の世を駆け抜けてきた同時代の人物への迫りようもまた、本書の読みどころである。 戦国を生き抜くために必死で足掻き、時には策を弄して、生き抜いた吉政。著者によって蘇った吉政の生きざまを心ゆくまで味わいたい。
デビュー以来25年、著者の円熟の境地をみせるとともに面目躍如の歴史小説の傑作、読み応えのある佳品である。
岩井(いわい)三四二(みよじ)は1958年岐阜県生まれ。第64回小説現代新人賞受賞の『一所懸命』で1996年デビュー。2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、2008年『清佑、ただいま在住』で第14回中山義秀文学賞など多くの文学賞を受賞。史実への探求にこだわりを見せる歴史小説の正統を引き継ぐ作家である。
(令和3年4月17日 雨宮由希夫 記)