書 名 『浄土双六』
著 者 奥山景布子
発 売 文藝春秋社
発行年月日 2020年11月20日
定 価 本体1600円(税別)
戦前の皇国史観ゆえであろうか、戦後となっても、室町期が小説の舞台に設定されることはまれで、永井路子の『銀の館』(1976年)、司馬遼太郎の『妖怪』(1968年)、南條範夫の『室町抄』(1984年)などの秀作が数えられるのみであったが、このたび本書が加わった。『オール讀物』に発表した4編に書下ろし2編を加え、オムニバス形式で繋ぎ一冊に纏めた短編連作集で、構成は以下の如し。
1、橋を架ける男 願阿(がんあ)弥(み) 書き下ろし
2、籤を引く男 足利(あしかが)義教(よしのり) 『オール讀物』2011年9月号
3、乳を裂く女 今(いま)参局(まいりのつぼね) 『オール讀物』2009年7月号
4、銭を遣う女 日野富子 『オール讀物』2010年7月号
5、景を造る男 足利義政 『オール讀物』2019年12月号
6、春を売る女 雛女(ひなじょ) 書き下ろし
足利義政(1436~1490)ら5人の歴史上の人物が現世(うつつ)に惑い浄土を求める人間模様が室町時代中期を舞台に繰り広げられる。「生きるとはしょせん双六か。命ある間は降り続けねばならない」(210頁)と「浄土双六」が上がった時、今まで誰も見たこともない足利義政・日野富子(1440~1496)の像が史実の間隙をぬって立ち現れる。一筋縄ではいかない小説作法と共に、作家が著述に要した時間も特筆に値する。「乳を裂く女」から書下ろし作品までに10年以上の間隔があるのも異例で、まさに「構想10年」の満を持しての刊行である。
足利義政は夫人の日野富子に御せられて応仁の乱を傍観した凡庸な人物で 為政者としての適性を欠いていたとも、見事な創造を成し遂げ、一応の美的世界たる東山文化を確立したとも評せられてきた。富子はその権力、義政以上で、収賄した金で暴利を貪るほどの、おそるべき守銭奴であって、応仁の乱の最大の元凶は御台所富子であると名指しされ、「悪女」の代名詞のように評せられてきた。真実の義政とはいかなる人物であったのか。本当の富子はいかなる女であったのか? 歴史の襞に分け入るような味わい深い文章に惹きこまれつつ、汲めども尽きぬ面白さを秘めている本書を何度も読まずにはいられなかった。
「籤を引く男」の足利義教(1394~1441)は籤という前代未聞の手段で将軍となった史上ただ一人の将軍で、義政の父である。嘉吉元年(1441)6月24日、「籤引き将軍」と陰口を叩かれながらも、将軍権力の専制化を苛烈に推し進め「万人恐怖」の世を現出した6代将軍義教が赤松(あかまつ)満祐(まんゆう)に弑逆される。世にいう嘉(か)吉(きつ)の乱(らん)である。いかなる重大事でも籤で決め、赤松満祐の招待を受けるか否かも籤によった義教が「今日ここへ座ってはいけなかったのだ」(77頁)と知るときは自身が惨殺されるそのときであったとは。
長禄3年(1459)1月、8代将軍義政の御台所(正室)日野富子所生の男子が死産。今参局(生年不詳~1459)の呪詛によるとの風評を義政に吹き込む者があり、今参局は琵琶湖の沖ノ島に配流され、途中、女子ながら切腹して果てる。今参局は義政を襁褓の中から養育、義政の幼時から仕えた乳母で、義政の側近として幕政に介入、権勢を恣にすると共に、義政より17歳も年上ながら、成(●)人(●)後(●)の義政に女として奉仕する愛欲の世界が描かれる。
嘉吉の乱以降、将軍家の威信は下降の一途をたどり、幕府財政は窮乏し、世情は混乱する。義政の治世下に、史上名高い寛正(かんしょう)の大飢饉(だいききん)が起きる。寛正2年(1461)2月、時衆の聖・願阿弥(生没年不詳)は義政より六角堂頂法寺の南での小屋がけの許しを得て、流民餓人に粟粥を施すべく、権門勢家の間を走り回り寄進を求める。小栗宗湛(おぐりそうたん)の障子画には二万貫を惜しげもなく支払った義政が願阿弥に施行したのは何とわずか銭百貫文(36頁)ばかりであっとは。後花園天皇は義政に驕奢と乱費を戒める一篇の詩を送るが、意に介さない義政は「嫌みな漢詩」と一蹴する。
寛正5年(1464)11月、男児に恵まれなかった義政(29歳)は弟義尋(ぎじん)を還俗させ、義視(よしみ)と改名させて後嗣に決める。ところが皮肉なことに、その翌年11月、富子(26歳)が義(よし)尚(ひさ)を産み、将軍継嗣問題が激化する。
義政が義視を後嗣とした本当のもくろみは「幕府再建の理想」(201頁)にあった。義政は将軍職と室町第を弟に譲り、自分は新たな住まいを造ろうとしたのだ。もっとも、幕府再建の理想が崩れて後には、将軍家を見守るための隠居所ではなく、己の平穏のためだけの場所を造ろうと考えているが(204頁)。しかし父ほどの意志の強さや指導力を持たなかった義政はこの理想を「富子には話していない」(197頁)。夫は30になるやならずで将軍職を放り出したとしか見えない富子にとって「良い景色を造ることが何よりの快楽である」と言ってはばからない「夫の心底は今なお闇の中である」(142頁)としか思えないのは当然であろう。
「銭を遣う女」――。足利将軍家ゆかりの公家・日野家の出である日野富子は女性でお金を稼ぐことの強みを知っていて、銭で銭を殖やす術が富子を支えた。10余年に及ぶ戦乱の間、自分の子供を将軍にすることのみに力を注いだ富子は抜け目なく大名たちを相手に金を貸し付け、その利息で財を成していた。潤沢な財で夫と幕府の財政を支えた富子は「感謝されこそすれ、いわれなき中傷を受けねばならぬのか」?「ひとりごちる」。金が持つ人を操る力を知り尽くし、やりたいことをやった人として作家は富子を描いている。
「銭を遣う女」の時代背景は義尚が父子共に「世を治めえぬ愚か者の将軍」(206頁)と自嘲しながら25歳の若さで夭折した5年後の「明応3年(1494)春」と限定されていること。このことには着目すべきではないかと思われる。
登場人物は愛息義尚、夫義政を相次いで彼岸へ見送り、自身も剃髪して尼となっている五十路の坂を越えた富子と、義政・富子の長女である聖子(義尚の姉)の二人。尼として出家の日課をこなしつつ、老後の余生を送る富子が義政との結婚、今参局との確執、義尚の出産・出陣そして死と「過ぎし日」を回想するシーンがほとんどであるが、富子を親の仇としてねらう少女が登場する。無論、創作上の人物である。富子から商売の手ほどきを受けた少女は雛女と名付けられ、富子は雛女に元手を「貸す」と言い渡して、小商いをさせる。それを聖子は見ていて、「聖子や義尚といった、血のつながった子にはくれなかった何かを、母がその雛女とやらにくれてやろうとしている」(160頁)と。「悪女」と言われた富子の別の側面が描かれている。この雛女は最終章の「春を売る女」に再登場する。
「春を売る女」は織田信長が13代将軍義輝に拝謁すべく上洛した永禄2年(1559)2月が時代背景である。主人公は萩野(はぎの)こと雛女。茶屋という看板の元、表家業としての女郎屋、裏では金貸しと、二つの生業で世を渡ってきた萩野は富子に連れられて申楽「砧」を見物した折、富子が「羡ましきこと」(237頁)と独りもらしたことを思い出す。「強欲で勘定高い稀代の悪女、京を焼け野原にした、長きにわたる戦乱の元凶を造った女と、亡くなって既に60余年を経た今でさえ、口を極めて罵る人も少なくない」が、「本当の富子はいかなる女だったのかと問われたら――萩野は正直、返答に困る」、と自問自答する(234頁)。
巻頭巻末にちりばめられた『梁塵秘抄』の歌の文句が「浄土双六」に相まって奥深い。余韻の残る究極の富子像である。
(令和2年12月27日 雨宮由希夫 記)