雨宮由希夫

書評『絵ことば又兵衛』

『絵ことば又兵衛』
著者 谷津矢車
発売 文藝春秋
発行年月日  2020 年9 月30 日
定価  ¥1750E

 

絵ことば又兵衛 (文春e-book)

絵ことば又兵衛 (文春e-book)

 

 

 2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビューした谷津矢車の最新作である。ほぼ同時期に文庫化された『おもちゃ絵芳藤』で、谷津は幕末から明治へと価値観が移り変わる時代の過渡期を生きた浮世絵師をさらりと描いているが、本作では、浮世絵の元祖ともいわれ、〈浮世又兵衛〉と綽名された伝説の画家・岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえかつもち)(1578~1650)の半生を安土桃山時代から徳川時代へと、同様に価値観の移り行く時代を背景として、斬新な解釈で描く尽くしている。

 岩佐又兵衛の、京都・福井・江戸へと流浪した生涯は多くの謎に包まれている。又兵衛の父の荒木村(あらきむら)重(しげ)(1535~1586)や明智光秀など信長への反逆者を主人公とした歴史小説『反逆』(講談社 1989年)を著わした遠藤周作は、又兵衛が村重の遺児だという説があるが、村重の有岡城落城の折、乳母が西本願寺の寺院に隠した遺児が後の岩佐又兵衛だとは断定しがたいとしているほどである。
 では、乳呑み児の又兵衛が誰に育てられ、どのように成人したのか。いつ、誰について絵の手法を学んだか。谷津の描くストーリーを追ってみたい。

 乳母のお葉(よう)は乳呑み児の又兵衛を背負い、命がけで有岡城を脱出して、ただ一人織田勢の囲みを抜ける。又兵衛は物心の着いた頃より、お葉とともに泉州堺のある寺で下働きをしていた。その寺で、又兵衛は最初の師、大和絵土佐派の絵師・土佐光吉(みつよし)に出会う。半年ほど経った冬、信長の追手が迫り、又兵衛はお葉と共に京に逃げ、本能寺の変で信長が斃れるまで二条油小路の笹屋という商人の家で逼塞していた。5歳の又兵衛に画才ありとみた笹屋は知り合いの狩野松栄(永徳の父)に頼み込み、又兵衛は狩野工房の外弟子となる。狩野工房に入って数カ月たった冬のある日、京の二条油小路近くで、武士を捨て茶人になって秀吉に仕え道薫と名を変えていた父村重と出会うが父との邂逅はそれきりであった。文禄元年(1592) 15歳の又兵衛は10年の間世話になった狩野工房を去り、狩野家の斡旋により、織田(おだ)信(のぶ)雄(かつ)に近習として仕える。  

 信雄は又兵衛の母だしを無惨にも京の六条河原で処刑した信長の次男である。自らの母を殺した信長の子に仕えるとは! 慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、信雄は改易となるまで、約8年、信雄に仕えたことになる。戦国無情の世とは言え、こうした凄まじい人間ドラマの現出に読者は驚愕するであろう。

 信雄の人物造形が秀逸である。又兵衛同様、吃(ども)に苦しんだ信雄は又兵衛を慈しみ、又兵衛が信雄の家中を離れる寸前に、又兵衛の出生の秘密を打ち明ける。かくして、「灰色の武家勤めの記憶の中、信雄との思い出は今でも極彩色の錦として胸を彩どっている」。絵師としての苦悩や葛藤とともに、歴史上の人物が構築された描写の中に浮かび上がるのも本書の読みどころ。弟秀(ひで)忠(ただ)に将軍職を奪われ、父家康(いえやす)にも疎んぜられた松平(まつだいら)秀(ひで)康(やす)(1574~1607)もそうした人物である。
 物語前半の見せ場はその秀康との運命的な出会いのシーンである。
 福井時代の又兵衛のパトロン松平忠直だが、京都時代の又兵衛に忠直の父秀康との人的つながりがあったとするのは作家の造形である。天正15年(1587)10歳の又兵衛は秀吉の北野の大茶会に出席していた秀康に巡り合う。時に秀康は豊臣家(後には結城家)に養子に出されながらも、威風堂々と「羽柴三河守秀康」と名乗る青年であった。茶会で絵を描くように命じられた又兵衛は「天下人の茶会」ともいうべき北野茶会を茶化しているようにも見られかねない絵を描く。それを見た秀康は「世の静謐を乱す絵だ」としながらも、一介の工房絵師に過ぎない又兵衛の稚気を諫めつつ赦すのである。
 朝鮮出兵、秀吉の死、関ヶ原の戦いと時は巡って、北野の大茶会より凡そ20年後の慶長10年(1605)、又兵衛は伏見城で秀康と再会するも、秀康のあまりの変わりように絶句する。「制外の御家」として幕府から疎遠な扱いを受け続けたことによる心の憤懣が因であろうか、かつての覇気ある姿は消えていた。
「わしの似絵を描いてくれ」。流転に次ぐ流転の人生の果てに、30数歳にして死出の旅に出ようとする秀康は又兵衛に肖像画を描くよう頼む。「心残りは一つだけ。あの息子はこれからやってくる時代の激変に耐えられるか。絵を通じて息子を見守ってやりたい」と。

 元和2年(1616)40歳を目前とした又兵衛は越前北之庄(福井市)に移り住み、藩主松平忠直のもとで絵画制作を行う。又兵衛が京を離れたかった本当の理由は「自分の宿業から逃れたかった。村重の子ではなく、ただの岩佐として、まっさらに生きてみたかった」からだが、「又兵衛にとって懐かしき京とは、豊臣と徳川が共存していた姿だった」とも。そもそも、「豊臣と徳川が共存していた姿」とは秀康の姿そのものではなかったか。が、その秀康はすでにいない。
 元和9年(1623)30にも満たぬ男盛りの忠直は改易を命じられる。父秀康を上回る反骨と奇矯の人であった忠直の行状は菊池寛の『忠直卿行状記』に詳しいが、大坂の陣により、すでに、豊臣氏は滅び、世は徳川へと移行。秀康の予言通り、武将が武功によって栄進し名を残す世は終わろうとしていたのである。
 豊後国萩原に配流されることになる忠直は5歳の次女鶴姫のために、「物語をくれてやりたい。届けたいのだ、わしの思いを」と又兵衛に絵巻物を描くよう命じる。又兵衛がこの時描いたのが、義経(よしつね)の母・常盤(ときわ)御前(ごぜん)主従が夜盗にあって裸に剥かれ殺される残酷な死の場面で有名な『山中(やまなか)常盤(ときわ)絵巻』で、忠直との約定通り、又兵衛は全12巻の絵巻を鶴姫に献上する。

 忠直が抜き差しならない両親の不和に悩んだであろう己の子に伝えたかった思いとは何か。忠直の思いは人の子の父となって初めて知る又兵衛の思いにつながる。血みどろの復讐絵巻の中に、又兵衛は母だしの六条河原での処刑シーンなど自らの生い立ちの幽かな記憶を落とし込んでいるやもしれない。
 父の思いを知りたい鶴姫が「わらわに、絵を教えてくれ、いつか父上に贈りたい」と涙ながらに又兵衛に訴える感動的なシーンで物語は終わっている。
『山中常盤絵巻』は牛若伝説にちなむ御伽草子を題材としているが、絵巻を制作するにあたり、作家は又兵衛に、かく言わしめている。「なにがしかの物語を絵に落とし込むとは、存在する多くの解釈からたった一つの、もしかしたら間違いかも知れぬ解を選び取る、傲慢な行いそのものだ。これくらいの重さがなければ嘘だ」と。
又兵衛を主語とする「なにがしかの物語を絵に」を、作家矢車を主語とする「又兵衛の物語を歴史小説に」と置き換えれば、作家の意図は明かであろう。

 物語は嘘である。本書は小説であるから、もちろん、一つの仮説にすぎない。美作津山松平家に伝わり、複数の所有者を経て、現在MOA美術館に所蔵される『山中常盤絵巻』(国の重要文化財指定)制作の背景がかくのごとくであったことはもちろん物語(嘘)であり、谷津の「傲慢な行い」なのである。
「ひょんなことから絵を知り、人の縁によって絵師の道に至っただけ」の又兵衛は、長谷川等伯から「奇妙の絵師」と称されるほどの絵師になっても、「浮世とは憂世。よろずにつけて心にかなわぬ憂きことの多い世。その憂世で、己は今まで、浮世に舞う蝶のごとく、筆を動かしていただろうか、無様と人に笑われようが己のしたいことを果たそう」と思っていたという。岩佐又兵衛の壮大にして稀有な一代記の誕生である。

             (令和2年10月31日  雨宮由希夫 記)