書 名 『明恵上人 栂尾高山寺秘話(上・下)』
著 者 高瀬千図
発 売 弦書房
発行年月日 2018年9月30日
国宝「鳥獣戯画」を蔵する京都栂(とがの)尾(お)高山寺(こうざんじ)。その高山寺の開祖が明恵(みょうえ)上人(1173~1232)である。川端(かわばた)康(やす)成(なり)は1968年にノーベル文学賞を受賞した時の記念講演で、「月の歌人」として明恵を紹介したが、かつて80年代に二度にわたり純文学作品で芥川賞候補となった高瀬(たかせ)千図(ちず)は歴史小説の主人公として明恵をどのように描くのか、興味を持って本書を紐解いた。
明恵は承安3年(1173) 紀州有田郡の地方武士平(たいらの)重国(しげくに)の子として生まれる。奇しくも親鸞(1173~1262)と同い年の生まれである。明恵の母は湯浅氏で、平治元年(1159) 平治の乱で清盛に加勢して手柄を立てた湯浅宗(ゆあさむね)重(しげ)は外祖父つまり母方の祖父である。
治承4年(1180) 富士川の戦い。水鳥の羽音で総崩れとなった平家の敗戦はそのまま平家の没落を意味した。明恵の父重国は頼(より)朝(とも)討伐のその戦いで戦死。
源平の争乱が明恵の一生を変える。平家の没落はすなわち母方の実家湯浅家の破綻をも意味していたが、母の病死と父の戦死と相次いで両親を亡くした明恵は母方の伯父上(じょう)覚(かく)(湯浅宗孝)を頼って仏門に入る。ただ、没落したとはいえ湯浅一族は生涯にわたって明恵の強い庇護者であった。明恵が新興武士階級の出身者であり、それも平家ゆかりの武士であったということを作家は懇切丁寧に描き、その上で、明恵の生涯に重大な影響を及ぼした人物として、上覚以外の3人の実在の人物と一人の架空の人物を登場させ物語をリードする。
先ず、文(もん)覚(がく)(1120(?)~?)が明恵の伯父・上覚の師であったということが運命的であった、といってよいであろう。事実そのものが、明恵の物語を面白くするのだ。作家が2016年、ワイズネット社から上梓した、本書の姉妹編ともいうべき『龍になった女 ――北条政子の真実――』では、政子と頼朝との縁を繋ぎ、政子を支える人物として文覚が存在感豊かに描かれている。
文覚はあまりにドラマチックな人生を生きた人物であった。横恋慕の果てに人妻・袈裟御前を殺めた北面の武者・遠藤盛遠であり、配流先の伊豆で、頼朝に平家討伐のための挙兵を煽る怪僧文覚でもある。評者(わたし)などは、文覚が頼朝を煽らなかったならば、頼朝の挙兵はなく、ついては父の戦死もなく、「明恵」の誕生はなかったのではないかと想像してしまうのである。
両親に死別した翌年、明恵は9歳にして、伯父の上覚に連れられて京都高尾の神(じん)護寺(ごじ)の文覚上人の下に引き取られ、弟子となり、華厳・密教を学ぶ。
「明恵上人樹上座禅像」(京都栂尾高山寺蔵)には、リスや小鳥に囲まれ、松の樹の上で座禅する明恵が描かれているが、明恵を愛した文覚の存在故に、明恵は自己の瞑想と勉学に集中した青春を過ごせたのだ。
幼少年期の明恵を描くに作家は架空の人物「知念(ちねん)」を物語に登場させている。
神護寺の「寺男」の知念は明恵より10歳年上。「牝犬のごとき母から生まれた野良犬のような人生」を送る知念と、親の愛情に恵まれ、武士の長男として、輿望を担って育った明恵の二人の軌跡を交差させることによって、平安末期から鎌倉初期の社会の実相を浮き彫りにする手法は鮮やかである。
かの時代、法然、親鸞、栄西らが輩出して新仏教を唱えて、平安仏教に清新の気風を吹き込み、明恵は鎌倉時代旧仏教復古派の代表者とみなされている。法然と明恵。法然(1133~1212)が40歳年上で、実際には顔を合わせることのなかった両者だった。明恵はもともと法然を「持戒の清僧」として畏敬の念を抱いていたが、法然が南無阿弥陀仏と称えるだけで誰でも往生できると説くに及び、建暦2年(1212)、明恵(40歳)は「摧(ざい)邪(じゃ)輪(りん)」(3巻)を著わし、法然の「選択(せんちゃく)本願念仏集」の所説を弾劾している。末法であることを口実に、仏教の根幹にある持戒すらも否定する法然を名指しして、「汝は即ち畜生のごとし」とまで言い切っている。なお、持戒とは仏教徒たるべき戒律を持つことである。
明恵49歳の承久3年(1221) 承久(じょうきゅう)の乱(らん)勃発。鎌倉幕府が誕生して以来、幕府にとって最初に迎えた危機が承久の乱であったが、朝廷側の武力による巻き返しを敢然と跳ね返すべく、北(ほう)条(じょう)泰(やす)時(とき)(1183~1242)は反乱軍の鎮圧と乱後の処理で在京し、その頃、明恵は泰時とめぐり合う。
泰時は北条(ほうじょう)政子(まさこ)の甥で、名実ともに執権政治を確立させ、後に鎌倉幕府第3代執権となる人物だが、二人はたちまち深い交友関係を持つにいたる。穏やかながら一途な性格の泰時は明恵を信頼し、為政者のありようを問い、政治の要諦さえ明恵に謀っている。泰時が鎌倉に帰って後も二人の交遊は続いたのである。
明恵入寂の貞永元年(1232)に、泰時が制定した武家としては最初の法典である「御成敗式目(貞永式目)」には、厳しく己を律する生き方をした明恵の倫理的思想が色濃く反映されているという。
承久の乱と明恵にまつわる挿話が物語の中に取り入れられている。承久の乱にて、多くの貴族や武家が神護寺、高山寺に逃げ込んだが明恵は彼らを匿った。
明達(みょうたつ)という尼僧もその一人、承久の乱で敗れた武士の夫人であるが、明恵の死後まもなく入水してしまう。人間の欲を肯定したうえで、葛藤を抱きながら禁欲的に生きる人物である明恵は自らと明達の関係を「義湘と善妙」の関係(善妙は唐の女性。新羅からやってきた義湘に一目ぼれするが、義湘の求法の志を知って竜に変身して義湘をどこまでも護る御法神となる)に仮託して、自らの明達への恋を書いている。
名声や権力と一線を画し、釈迦を強く思慕した明恵は釈迦の教えを厳しく守り、市井の人には仏教や生き方を分かりやすく示した人だった。
また、明恵が教団を作る気など毛頭なかったことも特筆される。後鳥羽院に愛され、執権北条泰時の帰依を受けた明恵であれば、教団を作ることは訳ないことであったろう。しかし、政治的な打算とは無縁であった明恵は宗教や信仰はあくまでも個人の内的問題であって、集団や国家のものではないとして、教団や組織を作ることを固く禁じたのである。
明恵こそは鎌倉初期の戦乱と飢餓、疫病の蔓延する未曽有の困難の中、我欲を捨て、戒律をよく守り、自己に対して寸分の欺瞞も許さず、9歳で出家すべく故郷を跡にしたときに誓った「衆生(しゅじょう)救済」を叫び、命を賭して生きた男だった。
「鎌倉時代の旧仏教側の代表的人物」、「一生女犯の罪を犯さなかった高僧」と公式通りに紹介される明恵が文字通り血肉の通った一人の人物として蘇った。
蛇足ながら、首都圏の出版社を盥回されたのち、やっと九州の版元で日の目を見た。難産の末の刊行である本書が多くの読者を得ることを希う。
(平成30年12月5日 雨宮由希夫 記)