雨宮由希夫

書評『柳は萌ゆる』

書名『柳は萌ゆる』  
著者 平谷美樹
発売 実業之日本社
発行年月日  2018年11月30日
定価  各 本体1950円(税別)

 

柳は萌ゆる

柳は萌ゆる

 

 
 大岡(おおおか)昇平(しょうへい)に「母成峠(ぼなりとおげ)の思い出」(「太陽」昭和52年6月号所収)という短文ながら、戊辰戦争の本質を的確に捉えたエッセイがある。

「私の戊辰戦争への興味は、結局のところ敗れた者への同情、判官びいきから出ている。一方、慶応争間からの薩長の討幕方針には、胸糞が悪くなるような、強権主義、謀略主義がある。それに対する、慶喜のずるかしこい身の処し方も不愉快である。その後の東北諸藩の討伐は、最初からきまっていたといえる。(略)多くの形だけの抵抗、裏切りがでる。あらゆる人間的弱さが露呈する。
 戊辰戦争全体はなんともいえず悲しい。その一語に尽きると思う。(後略)」

 明治維新は「近代の夜明け」であり「光」であったとする史観からすれば、保守・守旧対進歩・開明の争いである戊辰戦争は保守派の「悪あがき」にすぎず、維新政府による「正義の戦争」以外にはありえない。
 薩長政権は、“朝敵”会津藩主松平(まつだいら)容保(かたもり)の斬首、会津若松の開城、領地没収の三点を要求して譲らず、会津藩を徹底抗戦の途へと追い込む。東北諸藩による奥羽越列藩同盟は仙台・米沢両藩の主導で、当初、会津藩の窮境を救うことを目的として結成された。東北を文化果つる価値のない土地とみる新政府軍は「夷をもって夷を制すべく」奥羽の諸藩をばらばらに分解し、たがいに潰しあわせようと画策した。東北をめぐる大きな戦いは古代より、頼(より)朝(とも)、秀(ひで)吉(よし)とすべて勝者である「中央」対敗者となる「辺境」の戦いであるが、敗者たちは自らの存在意義を懸けて戦った。

 戊辰戦争には謎がある。謎の一つは白河(しらかわ)や平(たいら)、そして長岡(ながおか)が新政府軍に制圧されたあの時期に、盛岡藩はなぜ参戦したか、である。
 本書は、平谷美樹が「戊辰戦争=正義の戦争」とする薩長史観に異を唱え、盛岡藩(南部氏、20万石)の視点で戊辰戦争を描き切った渾身の歴史小説である。
 主人公は形だけの抵抗ではなく、維新の動乱に敢然と立ち向かった盛岡藩の若き家老・楢山(ならやま)佐渡(さど)(1831~1869幼名茂太、のち五左衛門)で、物語の前半は藩政の混乱、迷走に巻き込まれた佐渡の苦難の青春時代が克明に描かれる。
 嘉永6年(1853)の三閉伊一揆(さんへいいっき)は、三浦(みうら)命(めい)助(すけ)の指導の下、貧困と重税に苦しむ8千人もの農民が隣国仙台藩(伊達氏)領へ越境、逃散し、藩主の国替えなどを求めた大事件、いわゆる仙台越訴である。佐渡は事件解決のために奔走し、民百姓の声を政に反映させなければ国は成り立たぬということを学ぶ。
 慶応4年(1868)1月3日 鳥羽伏見の戦い勃発。朝廷より京都警護を命じられた藩主の名代として佐渡は上洛する。

 奥羽越列藩同盟佐渡が上洛中に結ばれたものである。
 勤皇か、佐幕か。同盟への不参加、参加についての藩論の決定は佐渡の帰藩を迎えてのこととされたが、盛岡藩の首席家老・楢山佐渡は京都にあって、苦悩していた。幕府が崩壊した今、新しい国造りをすすめねばならないが、いかにすべきかとの思いで、岩倉具視(いわくらともみ)、西郷隆盛(さいごうたかもり)、木戸孝允(きどたかよし)らに会う。この件(くだり)は知られざる幕末史の一幕で、多くの読者は驚きをもって読まれるであろう。
 佐渡が3人と会談している間、奥羽では、薩長率いる「官軍」は勝ち戦に驕り、傍若無人なふるまいがとまらない。薩長は私怨を大義にすり替えて、錦旗を翻しながら、問答無用と、奥羽の国を蹂躙している。佐渡は西郷ら3人と会って、決意する。「粗暴な成り上がり者でならず者の薩長の新政府に、この国の政治は任せてはおけぬ。薩長の維新は真の維新たりえない。薩長に新しい世を任せれば、百年、二百年の計を過つ」と。
 7月16日 佐渡盛岡藩へ帰藩。薩長の横暴に歯止めをかけるためには、新政府と対等に交渉できる力を持った奥羽越列藩同盟への参加が必要であるとして、佐渡は迷わず藩内の反対派を斥け同盟の参加を決める。
 が、すでに、7月4日、隣国秋田では久保田(秋田)藩(佐竹氏 20.5万石)が同盟離脱を決めていた。久保田藩に追随する藩が出て来ては同盟が崩壊する。久保田藩は同じ奥羽の友藩だが、同盟違約譴責のため、盛岡藩はやむなく開戦を決意する。
 鹿角口(かづのくち)からの秋田討ち入りを藩主より命じられた佐渡は、7月27日 黒ラシャ菱御紋つきの筒袖羽織を身にまとい、栗毛の馬に乗って出陣する。華やかな出陣風景の中に、父の雄々しくも凛々しい出陣姿を見送る幼い二人の娘。このシーンが読者の涙を誘う。娘たちはこれが父の見納めであることを本能的に知っていたのだ。

 盛岡藩の降伏は9月25日。3日前の22日に会津藩が降伏したとの報を受けて、盛岡藩主南部(なんぶ)利(とし)剛(ひさ)が直ちに奥羽鎮撫総督府に謝罪書を差し出した。盛岡藩の戦いは終わった。会津が降伏しては、盛岡藩が戦いを続行する大義はないのである。
 降伏後、列藩同盟の参謀は戦争犯罪者として東京に護送され東京で処刑された。
 佐渡は藩主やほかの重臣と共に東京に護送されたが、すべての責任を引き受け、賊軍の汚名を一身に帯び、「反逆首謀者」の罪名に甘んじる。最初は東京での処刑の予定であったが、盛岡に送られる。
 処刑されるために故郷盛岡に帰って来る父との再会を望む娘に、「旅人は家に戻ります。旅に出たままならば、そのお帰りを待って、明日を生きられます」と告げる母(佐渡の妻)。そして母の言葉を理解する幼けなき娘。これまた、涙なくして読めない場面である。
 明治2年 6月23日 刎首から切腹の形式をとり、南部氏の菩提寺である盛岡(盛岡市須川町)の報恩寺(ほうおんじ)で処刑が執行された。享年39。辞世は「花は咲く 柳は萌ゆる 春の夜に 移らぬものは 武士(もののふ)の道」、本書の書名の由縁である。

 大正6年(1917)9月8日 「旧南部藩士戊辰殉難者50年祭」が、佐渡切腹した報恩寺でとりおこなわれ、祭主で政友会総裁の原敬(はらたかし)(1856~1921)が、「戊辰戦争は政見の異同のみ、勝てば官軍、敗くれば賊軍」と祭文を読み上げた。戊戌戦争の敗者は明治政府によって賊軍とされたが、盛岡藩は朝敵でもなければ賊軍でもないと公言し、戊辰戦争は近代化の路線と樹立されるべき近代国家のありようをめぐって日本を二分した内戦であったとの歴史認識の下、佐幕を貫き奥羽越列藩同盟に与した東北諸藩の汚名をも雪がんことを、天下に表明したのである。

 薩長が奥羽列藩を「白河以北一山百文」と嘲笑した言葉を逆手にとって「一山」と号した平民初の総理大臣・原敬盛岡藩士の家に生まれ、佐渡処刑の日、報恩寺の土塀の周りを涙を流しながら歩いたと伝わる通り、佐渡の汚名を雪ぐことに政治生命をかけた反骨の政治家である。 

 岩手生まれの作家・平谷美樹は恐るべき流血を伴った戊辰の内乱と時代の変動に揺れながら生きざるを得なかった人々の波乱に満ちた生き方を、佐渡の父帯刀(たてわき)や妻子(つまこ)の家族をはじめとする人間ドラマを随所に盛り込みつつ描き、「薩長による薩長のための明治維新史」によって抹殺された「知られざるもう一つの戊辰戦争」をよみがえらせた。歴史の真実は一つである。本書は維新から150年の節目を迎えた今年、明治維新とは何であったかを改めて問い直すにふさわしい歴史小説の巨編である。
 なお、盛岡の初冬の風物詩として名高い盛岡文士劇。今年度は本書を原作とし、道(みち)又力(またつとむ)の脚本で今月1、2日に上演された。
          (平成30年12月10日  雨宮由希夫 記)