頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第39回「出世と恋愛 近代文学で読む男と女」 (講談社現代新書)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー39

出世と恋愛 近代文学で読む男と女 (講談社現代新書) 「出世と恋愛 近代文学で読む男と女」
(斎藤美奈子、講談社現代新書)

 歴史時代小説の範囲は、最近は第2次世界大戦(大東亜戦争)前とされています。ということは、明治・大正、昭和前期は十分対象となります。
 今回ご紹介する本は、いわゆる近代文学史です。その中でも、特に男と女の青春、恋愛から観た文学史といって良いものです。今までが前近代の政治史が中心でしたので、こうした毛色の変わった新書、専門書の紹介も良いかと思った次第です。
 前近代を描く歴史時代小説では、女性には決まったパターンがあります。それは、
(1)運命に翻弄される美しくたおやかな女性(にょしょう)
(2)男勝りで武芸に優れた美姫
の、だいたい2つのパターンです。
 すったもんだの末に、いずれも最後は主人公と結ばれてハッピーエンドか結ばれずにバッドエンドのパターンとなりますが、近代文学ではどうなのでしょうか。
 本書では、主に以下の作品(と主人公)が取り上げられています。
(1)『三四郎』(夏目漱石)の小川三四郎
(2)『青年』(森鴎外)の小泉純一
(3)『田舎教師』(田山花袋)の林清三
(4)『友情』(武者小路実篤)の野島某
(5)『桜の実の熟する時』(島崎藤村)の岸本捨吉
(6)『奴隷』(細井和喜蔵)の三好江治
(7)『不如帰』(徳冨蘆花)の川島浪子
(8)『金色夜叉』(尾崎紅葉)の鴫沢宮
(9)『野菊の墓』(伊藤左千夫)の戸村民子
(10)『或る女』(有島武郎)の早月葉子
(11)『真珠夫人』(菊池寛)の荘田瑠璃子
(12)『伸子』(宮本百合子)の佐々伸子
 前半が男性、後半が女性ですが、男性を主人公としたものを「青春小説」とし、女性を主人公としたものを「恋愛小説」として、二つの小説には黄金パターンがあるといいます。
では、その黄金パターンとは、どのようなものなのでしょうか。まず「青春小説」は、
(1)は地方から上京してきた青年で
(2)彼は都会的な女性に魅了される
(3)しかし、彼は何もできずに、結局ふられる
というパターンで、「告白できない男たち」の物語。
 そして、「恋愛小説」は、
(1)主人公には相思相愛の人がいる
(2)しかし、二人の仲は何らかの理由でこじれる
(3)そして、彼女は若くして死ぬ
という、恋愛に踏み込んだ女は、作者の手で「殺される」パターンで、本書では「死に急ぐ女たち」の物語と呼んでいます。
 本書では、日本の男性は、概して恋愛が下手だといい、その理由を生まれ育った環境、つまり男女別学の近代学校教育制度に求めています。つまり、多感な青年時代を男子校に代表されるホモソーシャルな空間で過ごしたことが影響しているというのです。
 一言でいえば、「蛮カラ」文化でしょうか。
 ところで、男と女の関係、つまり恋愛については、よく分かるのですが、出世についてはどうでしょうか。
 本書では、明治・大正の青年たちをとらえた立身出世への意欲は、この時代の富国強兵とも利害が一致するもので、青年たちは、立身出世思想に懐疑心を抱いたり抵抗したり挫折したりしながらも、それでも「成功」を夢見て走り続けた、としています。
 では、なぜ青年たちは立身出世主義にとらえられたのでしょうか。その説明はありませんので、考察するしかないのですが、おそらく富国強兵政策のもと、兵となる男性有利の社会を構成し、かつ、前近代のような武芸ではなく、学問・学歴による登用が、その理由ではないかと思われます。ゆえに青年は、学校のある都市、特に東京を目指したのです。
こうして吸い寄せられた地方の青年は、そこで田舎では想像もできない都会的な女性に接し、惹かれていったのです。
 やがて、ついに告白もできず、立身出世への意欲も薄れ、田舎へも帰れず、手近なところで安逸に流れて、故郷喪失者となっていった青年も多かったことと思います。
 
 時代は違いますが、私もそんな心情と疑似体験を有していたからこそ本書に惹かれたのかもしれません。
 もしかしたら、あなたもそうかもしれません。
 日本的な心情の根っこにあるものかもしれないと考えるのは私だけでしょうか。

 

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