頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー35
「世界を動かした日本の銀」
(磯田 道史、近藤 誠一、伊藤 謙 ほか、祥伝社新書)
銀というと、オリンピックの金銀銅メダルを思い浮かべる方も多いと思いますが、同時に石見(大森)銀山を思い浮かべる方も多いと思います。
石見銀山は、現在は閉山していますが、その遺跡は2007年にユネスコの世界遺産に登録されています。
本書はその登録十五周年を記念して行われた、国際日本文化研究センター共同研究会の講演「世界遺産“石見銀山遺跡とその文化的景観”――歴史文化資源の探求と活用」をもとに作成されたものです。
本書の紹介に入る前に、以下の年表を見てください。建武の新政以降石見銀山発見までを主に東アジア情勢をまとめたものです。
1334 建武の新政
1338 足利尊氏征夷大将軍となる。(室町幕府の始まり。)
1368 元朝倒れ、朱元璋(洪武帝)明朝を興す。
1369 懐良親王、日本国王に冊封される。(「日本国王良懐」、洪武帝)
1392 李成桂の朝鮮建国。南北朝の合一。
1401 足利義満、日本国王に冊封される。(建文帝)
1402 靖難の変(勝利した永楽帝の統治(~24))
1404 勘合貿易の開始
1405 鄭和の南海遠征(~33)
1429 琉球の三山統一
(1492 コロンブス、北米を発見)
1523 寧波の乱
1533 石見銀山発見
建武の新政から石見銀山発見までおよそ200年ですが、この間に東アジア情勢は大きく変わります。中国の明を頂点とする朝貢貿易体制となります。
その少し前、日本では平清盛以降宋との貿易で得た銅銭(宋銭)をもとに、貨幣経済が浸透していきました。さらに、宋が元に滅ぼされると、元では「交鈔(こうしょう)」という紙幣を使い、銅銭は用いられなくなりました。余った銅銭が大量に日本に流入します。これを基盤にしたのが室町幕府です。後の徳川氏(約400万石)と異なり、足利氏の直轄領は少なかったのです。
明は銅銭や紙幣ではなく、銀貨を主要な通貨としました。これは世界的な流れだったようです。しかしながら、中国では銀の産出量が少なく銀不足に陥ります。
そのようなタイミングで発見されたのが、石見銀山だったのです。
過去の日本、中国等のGDPの比較(現在では可能なようです)から、日本が最貧国から抜け出せたのは、まさにこの石見銀山の銀の輸出だったのです。
そのことを述べたのが、磯田道史さんの第1章「世界を動かした日本の銀」です。俯瞰的に述べられていますので、目からウロコの日本経済史ともいえるでしょう。
なお、氏は同章で、近代的なマスクが開発され、着用されたのが、石見銀山だったと述べています。その経緯は、ぜひ本書で……。
本書の構成は、以下の通りです。
はじめに――今の日本の課題がここにある(磯田道史)
第一章 世界を動かした日本の銀(磯田道史)
第二章 世界遺産登録の舞台裏(近藤誠一)
第三章 石見銀山の歴史的価値(仲野義文)
第四章 江戸時代の鉱石標本の発見(石橋 隆)
第五章 座談会・次世代に残すために(磯田道史、近藤誠一、伊藤 謙、仲野義文、石橋 隆、福本理恵)
おわりに――縁に導かれて(伊藤 謙)
石見銀山が世界遺産に登録されたのは、2007年ですが、正式な名称は「石見銀山遺跡とその文化的景観」です。
なぜ、石見銀山遺跡だけでなく、文化的な景観なのでしょうか。そのことについて述べたのが第2章です。
石見銀山は、一度世界遺産登録に落選しているのですが、そこから逆転登録となった理由に「文化的景観」があるようです。近藤さんはユネスコ大使を務められて、その舞台裏をご存じで、その舞台裏も本章で述べられています。
第3章と併せて、世界遺産の設置やその意義等、石見銀山登録の歴史的な価値を考えてみるのも良いかもしれません。
なお、第2章で、鴨長明の『方丈記』にある、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし」
を、物質や物事は常に流れており、生命とはそれが一時的に滞っているものにすぎない、と解釈し、これこそ「動的平衡」であると述べています。
動的平衡とは、生命体の中で絶えず合成と分解が進んでいる状態をいいますが、先の『方丈記』の一節は、「無常感」を表現したものと考えていましたので、その解釈の斬新さに大きな衝撃を受けました。
第4章は、江戸時代に作られた見事な鉱石標本について紹介しています。
第5章は座談会ですが、参加者の問題提起を受けて、いっしょに人類普遍の課題を考えてみるのも良いかもしれません。
石見銀山を扱った歴史時代小説を知りませんので、今回も小説の紹介は省略します。どなたか、ご紹介いただければありがたいです。