頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第32回「楠木正成  知られざる実像に迫る」(批評社)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー32

楠木正成 知られざる実像に迫「楠木正成  知られざる実像に迫る」(千早赤阪楠公史跡保存会編・生駒孝臣・尾谷雅比古著、批評社)

  楠木正成ほど、その人物像や評価が大きく変わる(変わった)人物も珍しいのではないでしょうか。
戦前は皇国史観の影響もありましたが、大楠公(小楠公は子の楠木正行)と呼ばれ、大忠臣の一人でした。
戦後は一転「悪党」だったとの評価もあります。
 では、実際はどうだったのでしょうか。その実像に迫ったのが本書です。
 正成は、様々な「顔」を持っている、とまず本書では指摘し、それぞれについて検証しています。

(1) 後醍醐天皇に仕えた忠臣
赤坂城で反幕府の旗を上げ、後に千早城に移って幕府軍を散々に悩ませます。建武の新政後は、従五位に叙され、摂津国、河内国の国司に補任され、恩賞方三番、記録所寄人等に任じられました。最後は、西上する足利尊氏軍と戦い、湊川で敗れて自害しています。
死を覚悟しての子正行との桜井の別れは有名で、歌に舞台等に様々脚色されました。 「忠臣楠木正成」像については、価値観は別として、否定する人は居ないと思います。

(2) 鎌倉幕府の御家人
千早、赤阪城に籠もって幕府に抵抗した正成が、鎌倉幕府の御家人だったという節です。
本書では、その検証を以下のように行っています。
・ 一つは歌です(『後光明照院関白記』にあるそうです)。
“楠の木の根ハかまくらになるものを枝をきりにと何のぼるらん”

楠木氏の根(出自)は鎌倉にあることを示しており、御家人等鎌倉幕府関係者ではなかったかと推測しています。
・ 『吾妻鏡』に源頼朝に仕えた関東の御家人に「楠木四郎」という人物がいることから、幕府に関わる一族ではないかと推測しています。

(3) 商人的な武士
正成の根拠地金剛山では、水銀の原料となる辰砂を採掘し、京都や奈良に販売し、研磨に使う石榴石の販売権を有する供御人を正成が統括していた、という見解があります。
本書では、そうしたことを示す史料がないことから憶測として否定していますが、畿内の武士は、交通や流通に関わりを持つことが多いことから、金剛山一帯の交通や流通路を利用する集団との接点はあったのではないか、と推測しています。
また、京都へと続く東高野街道や大和川水系に接続する石川の水運を掌握していた可能性を指摘しています。

(4) 悪党
  戦後、注目されるようになった「悪党」であったという見解が出されました。
これは、臨川寺領若松荘を「悪党楠兵衛尉」が不法占拠している、ということが史料上確認され、この人物が正成とされているのです。また、一族の「河内楠入道」が東大寺領荘園で濫妨を働いているという指摘もあります。
本書では、鎌倉時代の「悪党」とは、対立する当事者同士が、自分に不利益を与えた相手側を訴える際のレッテルの側面があったこと、実際に「悪党」と呼ばれたことが確認できるのは、若松荘の1件のみであることから、正成を恒常的な「悪党」とすることに疑問を呈しています。

以上を踏まえ、楠木正成は、「悪党」集団を構成する武士たちとのネットワークを持ち、公家に仕えて鎌倉幕府の御家人にも連なり、交通および流通に携わる。ときに荘園領主から「悪党」呼ばわりされる多面的な要素を持つ畿内武士。その姿こそが正成の実像だったとし、これまでの正成像はどれも当てはまるものであり、何か一つの属性に絞って正成の実像を捉える必要などない、と本書では結論づけます。

 人間存在は多様であり、当然楠木正成もまた多様な存在だったということでしょう。
 結論としては、やや物足りものがありますが、実像とはそのようなものではないでしょうか。

 なお本書は、楠木正成の江戸期以降の顕彰と千早赤阪村の記録も掲載されています。
 それは、国家(維新官僚)による上からのナショナリズムの強制から、やがて下(地域、民衆)のナショナリズの醸成、そして地域アイデンティティの形成へと進行していく過程がよく描かれています。

 楠木正成を主人公とした小説はいくつかありますが、今回は小説ではなく、歴史学の一般書をご紹介します。本来なら、こちらをレビューする予定でしたが、楠木正成の「実像」に惹かれて上記の書の紹介としました。併せて、お薦めします。
「楠木正成」(新井孝重、吉川弘文館)

 

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