頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第31回「江戸の終活 遺言からみる庶民の日本史」(光文社新書)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー31

江戸の終活 遺言からみる庶民の日本史 (光文社新書) 「江戸の終活 遺言からみる庶民の日本史」
(夏目琢史、光文社新書)

 現代は超高齢化社会といわれています。併せて、少子化社会でもあります。遺言を子孫に残す人が何割くらいいるでしょうか。
 江戸時代は、およそ250年続きますが、戦争のない比較的平和な時代といわれています。読み書き算盤など初等的な教育が普及し、識字率が向上します。出版技術も上がり、平均寿命も延びたことでしょう。
 そうなると内省的になる人も増えて、自分の来し方、子孫の行く末を考える人も増えたのではないでしょうか。時代の制約はありますが、そうした先人の遺言を読み、その文字に込められた思いを読み取るのもまた興味深いものがあると思います。
 本書は12人の比較的庶民に近い人びとの遺言を読み解いています。
・ 第1話は、百姓・鈴木仁兵衛の遺言「村役相勤めまじき遺書」です。
遺言を残したのは文政12年。江戸文化爛熟の時代と言われた頃です。鈴木仁兵衛は、駿河国志太郡西方村(現在の静岡県藤枝市)の名主(村役)を務めた人物です。
名主といえば村のまとめ役。領民と領主との間で、さぞかし苦労をしたことと思われますが、遺書の中では、けっこう自慢話もあるようです。
では、なぜ勤めるなと遺言したのでしょうか。

・ 第2話は、廻船問屋・相木(あいのき)芳仲の遺言「金銀よりほかの宝これなく候」です。
 遺言を残したのは元禄14年。犬公方綱吉の時代です。芳仲は、小曽原村(現在の福井県越前町)出身の廻船問屋(船荷の取次業者)です。
 相木家は、越前の戦国大名朝倉氏の一族で、天文の頃に信州に移り、武田氏に仕えたのですが、武田氏滅亡後に越前に戻り、土着したようです。
芳仲は通称を宗兵衛といい、小曽宇原村に拠点を置きつつも、新保浦に進出して一代で廻船問屋として富を築きました。
 そんな人ですから、ある意味お金は宝だというのは理解できます。ですが、そんな単純な理由からでしょうか。時は元禄というバブル時代、時代背景と併せて考えてみたいですね。

・ 第3話は、浪人・村上道慶の遺言「末世までのためを存じ候て自殺いたし候」です。
 遺言を残したのは正保元年。徳川家光の時代です。村上道慶は、現在の陸前高田市では、知る人ぞ知る郷土の偉人だそうです。
 では、なぜ道慶は自殺したのでしょうか。浪人故に将来を悲観したからでしょうか。どうも、そうではないようです。

・ 第4話は、商人・武井次郎三郎の遺言「永く勘当と相心得申すべく候」です。
 遺言を残したのは慶応3年。大政奉還の年です。次郎三郎は、美濃国武儀郡長瀬村(現在の岐阜県美濃市長瀬)の美濃紙商です。
勘当というからには、息子に対してですが、さて、息子は勘当されるほどの放蕩息子だったのでしょうか。だとしても、なぜ遺言に残したのでしょうか。

・ 第5話は、百姓・鯉渕加兵衛の遺言「この書永く所持致し、毎年正月中披見頼み入れ候事」です。
 遺言を残したのは宝暦6年。田沼意次が台頭しつつある頃です。加兵衛は、下野国真岡領山本村(現在の栃木県芳賀郡益子町)の名主を務めた人物です。
 増淵家は、元は武家の家柄ですが、浪人して山本村に住み着くようになったようです。
加兵衛はそんな由緒書きを子孫に残して、なぜ読み返すように遺言したのでしょうか。

・ 第6話は、豪商・戸谷半兵衛の遺言「心に錠をかけべし」です。
遺言を残したのは元文3年。八代将軍吉宗の時代、享保の改革が浸透していた頃です。
戸谷家は武蔵国児玉郡本庄宿の豪商ですが、何の商いをしているかは本書では解りませんでした。ただし、戸谷半兵衛は、『耳囊』(根岸鎮衛著)にも取り上げられている有名人のようです。
では、「心に錠をかける」とは、どのような意味なのでしょうか。

・ 第7話は、河岸問屋・後藤善右衛門の遺言「弁才天諸書物、先祖の心願を継ぎ麁末することなく大切に持ち伝うべし」です。 遺言を残したのは文政3年。化政文化と呼ばれる江戸が最も江戸らしかった時代です。
善右衛門は、下総国相馬郡布施村(現在の千葉県柏市)の名主を代々務めてきましたが、18世紀以降河岸問屋(河岸場に船揚げされる荷物を扱う問屋)の惣代として活躍したそうです。
江戸時代は神仏信仰も盛んで、遺言の「弁才天」とは、関東三代弁天の一つ「布施弁天」(紅龍山東海寺)のことで、善右衛門の先祖又右衛門が開基に関わりがあったようです。
では、先祖又右衛門の心願とは何だったのでしょうか。

・ 第8話は、百姓・安藤孫左衛門の遺言「永きいとまごい申したき存念ばかりに候」です。
遺言を残したのは正徳2年。将軍は徳川家宣、新井白石を登用し、正徳の治と呼ばれる改革が進んでいた頃です。
孫左衛門は、美濃国本巣郡十四条村(現在の岐阜県本巣市十四条)の百姓で、この遺言を書き始めたときに83歳だったということです。当時にしては長命ですね。
その長い人生、孫左衛門はどのような百姓としての人生を歩んできたのでしょうか。

・ 第9話は、廻船問屋・間瀬屋佐右衛門の遺言「天下泰平を悦ぶべき事」です。
遺言を残したのは天保5年。天保の飢饉が続いていた最悪な頃です。佐右衛門は、新潟で廻船問屋を営んでいました。
その新潟は、都市の一揆つまり打ちこわしが起きていました。天保の飢饉の影響です。3年後には大坂で大塩平八郎の乱、同じく柏崎で生田万の乱が起きています。
打ちこわしが狙うのは、米の買い占めなどを行っている裕福な大店です。では、佐右衛門の間瀬屋も襲われたのでしょうか。襲われなかったとしたら、それはなぜだったのでしょうか。

・ 第10話は、農政家・田村吉茂の遺言「無理に見よと云うにはあらず。極楽望むの者は読むべし」です。
 遺言を残したのは文久3年。明治維新間近の頃で、勤王佐幕に揺れていた時代です。田村吉茂は、下野国下蒲生村(現在の栃木県上三川町)出身の農政家です。
農政家とは、農業に係る施策を提言する人ですが、宮崎安貞、大蔵永常などのように田村吉茂も書物を刊行しています。いわば知識人といってよいでしょう。
その田村吉茂は、極楽往生を望む者は、自身つまり田村吉茂の書物を読むように遺言しているのですが、農政と極楽はどのように結びつくのでしょうか。

・ 第11話は、古着屋・増渕伊兵衛の遺言「不覚にも切腹仕るべしと脇差を取り出し用意は致し候」です。
 遺言を残したのは文久元年。上記の田村吉茂とほぼ同じ頃です。伊兵衛は、宇都宮の古着屋ですが、4代目までは魚屋を営んでいました。古着屋に商売替えしたのは、5代目伊兵衛で養子でした。上記の遺言は、その5代目の言葉で、それを7代目の伊兵衛が遺言として残しているのです。
 5代目伊兵衛は不幸の連続でした。廃業も考えました。でも、頑張って無事に7代目に譲ることができました。その祖父の生き様を見聞きした7代目の遺言の始まりが、上記の言葉なのです。
 第11話は、読んでいて思わず、ぐっとくるものがあります。

・ 第12話は、魚問屋・片桐三九郎の遺言「皆命終わるの時は捨て行かねばならぬ」です。
 遺言を残したのは天保元年。まだまだ化政文化の余韻が残っていた頃です。三九郎は、新潟で代々鮮魚問屋を営んできました。
 三九郎は遺書に片桐家のしきたりを詳細に描き込んでいるそうです。その三九郎が「捨て行く」という「命終わるの時」とは何なのか、本書の中でいっしょに考えてもよいかもしれません。

 以上、本書では12人の遺言を紹介していますが、「おわりに」で本書の作者は、以下のように述べています。
「彼らが生きた社会状況の影響も少なからずありましたが、それ以上に実に人間らしい等身大の生き様が表れているように思います」

 なお、本書で取り上げた遺言は、「 」で示していますが、意味は分かると思いますので、現代語訳は省略します。

 また。長くなってしまいましたので、小説の紹介は、今回は省略させていただきます。

 

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