頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第28回「日本中世の民衆世界 -西京神人の千年」(岩波新書)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー28

日本中世の民衆世界 西京神人の千年 (岩波新書) 「日本中世の民衆世界 -西京神人の千年」
(三枝暁子、岩波新書)

 桓武天皇が平安京へ遷都したのは延暦13年(794)のことでした。
――(鶯)鳴くよ(794)平安京
 などで、試験のために暗記された方もいらっしゃるでしょう。
 その平安京は、朱雀大路を境に左京と右京に別れていました。後、左京は東京、右京を西京と呼ぶようになります。「とうきょう」「さいきょう」ではなく、「ひがしのきょう」「にしのきょう」と呼ぶようです。
 やがて京の町は、鴨川を超えて発展していくこととなりますが、逆に右京(西京)は、衰退していくこととなります。湿地の多かったことが原因のようです。
 その後、右京(西京)の三条通以北が、北野天満宮領として認定されると、その地(左京全体ではなく限定された地)を指して西京と呼ぶようになります。この地に居住していたのが、「西京神人」と呼ばれる人たちです。
 西京神人の子孫の方は、現在もいらっしゃいます。むろん、現在は「神人」ではありませんが……。
 本書は、西京神人のおよそ一千年にわたる変遷をたどったもので、「はじめに」と「おわりに」を除くと七章立ての構成です。
 ところで、「神人(じにん)」とはどういう人たちのことでしょうか。一般的には、神社と結びついた商業や工業に従事する商人や職人たちのことだとされています。ゆえに、「じにん(神人)」なのですが、彼らは、朝廷、幕府、権門寺社からの税金(営業税や通行税等)を免除され、関係を結んだ神社に対して貢納品や営業利益の一部を納めるなど特定の「役」を負担することとなっていました。
 天満宮は、菅原道真を祀った神社ですが、北野天満宮は、道真の怨霊を崇め鎮めるために建立されたばかりでなく、民衆たちの福徳を願う意も込められていました。天暦元年(947)のことです。(第1章)
 その北野天満宮に仕える西京神人が初めて記録に表れるのは、13世紀の弘安7年(1284)のことですが、14世紀なると麹業者として度々記録に表れるそうです。
 酒の需要が増えて、13世紀半ば頃には、京の町に数えきれぬほどの酒屋が建ち並んでいました。やがて、14世紀の足利義持の時代には、宴会が娯楽として開かれるようになり、益々酒屋は繁盛していくこととなります。
 酒屋の中には土倉(貸金業)を営む者も多く、比叡山延暦寺と関係を結んでいました。
 その頃、収入の減少に苦しんでいた朝廷では、「酒屋役」とは別に、造酒司みきのつかさが「酒麹役」という名の一種の税金を徴収しようとします。しかしながら、検非違使庁や京職なども狙っており、造酒司が徴収することで決着をみたのは、14世紀半ばになってからでした。
 ところが、財政基盤の弱かった室町幕府も酒屋役に注目していました。
 結果、力に勝る室町幕府が、土倉役と併せてその賦課徴収権を掌握することとなります。
 その過程で西京神人は、酒麹役を免除され、その代わりに北野天満宮の神役を負担すれば良いこととされました。同時に、室町幕府から京における麹の製造、販売の独占を許されるのです。
 いったいそれはなぜなのでしょうか。また、どのような経緯で西京神人が麹業を営むことになったのでしょうか。(第2章)
 足利義満政権期は、北野祭に大きな変化があったといわれています。では、どのような変化があったのでしょうか、また、北野祭とはそもそもどのような祭礼だったのでしょうか。(第3章)
 さて、中世の商工業者集団といえば、「座」を形成していたことが知られます。ですが、西京神人は「麹座」を結成していないようです。「座」は特定の寺社や貴族を本所として組織される同業者ですが、西京神人は、「西京」という地縁によって形成されていたからのようです。そこで「ほう」というものが出てくるのですが、保については、第4章をお読みください。
 京の酒屋、土倉の約8割は、比叡山延暦寺の支配下にありました。彼らは西京神人の麹業独占を喜ばず、ついに独占停止を求めて幕府に強訴します。
 嘉吉の乱(1441)で足利義教を暗殺され、翌年、跡を継いだ義勝をわずか10歳という若さで亡くしていた幕府(管領畠山持国)は、洛中の酒屋・土倉に酒麹の製造を認める裁許をくだします。
 当然、この決定に怒ったのは西京神人たちでした。彼らは北野天満宮に立て籠もります。
 しかしながら、管領畠山持国は、侍所に命じて彼らを実力で排除しようとします。
 結果、合戦になってしまい、北野天満宮社殿が炎上してしまいました。これにより西京神人の中には、家を自焼きして没落していく者が出てしまいます。(第4章)
 自焼きした跡地は、闕所となりますが、そこへ進出してきたのが、幕府政所伊勢氏だったのです。伊勢氏の被官となった西京神人の中には、名字を名乗る者が出てくるようです。
「室町期、荘園村落においても荘官や村の「おとな」が、武家被官となって名字をもち、「侍」身分化していくことが指摘されている」とのことです。
 ということは、当時、侍以外は、名字を名乗らなかった(持たなかった)ということでしょうか。興味を引かれるところです。
 さて、閑話休題――。
 文安の麹騒動後、西京神人の麹業は衰退していきましたが、麹業そのものは生き続けたようです。
 天文14年(1545)8月、西京神人は、伊勢氏の幕府政所に対し、義持政権時代のように、西京神人のみが麹業を担えるよう将軍から命じてほしいとの訴えを起こしています。
 これは伊勢氏の被官となったことが関係しているようですが、その縁からか、16世紀になると、北野天満宮支配下の神人という性格を保ち続けながらも、ときに将軍の命令により人足役を負担したり、軍勢に参加したりするなど、幕府の直接支配をも受ける存在になっていたようです。(第5章)
 豊臣政権は、西京神人が北野天満宮神人であると同時に、「侍分」すなわち「侍」身分の者であったと認識していたようですが、結局、豊臣政権は、彼らを町人身分として位置づけていきます。
 西京神人は、豊臣政権、その後の徳川幕府へも麹業独占の申立を行いますが、すでに麹業は広く普及しており、彼らの主張は通りませんでした。
 近世の西京神人は、「装束」を着用して奉幣を行い、御旅所に拝殿を設けて独自の祭祀を行う、いわば神職へと変わっていったのです。(第6章)
 そして、近代を迎えて神仏分離の時代に入ります。西京神人は、それをどのように受け止め、どのように変わっていったのでしょうか。(第7章)
 「おわりに」は、「歴史とは何か」について考えさせられます。秀逸なエッセイというべきでしょう。本文を読んで難しかったとお嘆きの方も「おわりに」を読んで、改めて「歴史と何か」に開眼することでしょう。

 中世の神人をモチーフにした小説を寡聞にして私は知りませんが、おそらく無いのではないでしょうか。
 神人に限らず、民衆史や「人民」概念ではない「民衆」像が初めて歴史学に登場したのは、「社会史派」と呼ばれる研究者の影響によるものです。
その流れにある網野善彦の下記著作に私は大きな衝撃を受けました。ここから私は「暮(ぼ)露(ろ)」(職人とみなされている)を主人公とする小説を志しました。暮露については、改めて述べるつもりです。
 網野善彦は、歴史研究者ばかりでなく、隆慶一郎始め多くの歴史時代作家にも大きな影響を与えました。
氏の著作はたくさんありますが、本書に関係する下記著作は、新書版で比較的読みやすいものです。
「日本中世の民衆像―平民と職人」(網野善彦、岩波新書)

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