書 名 『義時 運命の輪』
著 者 奥山景布子
発 売 集英社
発行年月日 2021年11月25日
鎌倉幕府を開いた源頼朝の義弟で、執権にまで昇りつめ幕政を牛耳った北条義時(1163~1224)には様々な謎がある。
本作はその北条義時を主人公とし権謀術数が渦巻いていた鎌倉初期を描いた歴史小説である。
作者は編年体風に綴るのではなく、エポックメーキングとなった年月と場所を切り取り、史実の奥底に潜む人間の物語として人間模様を展開、義時62年の生涯を切り取り、再現している。全8章の構成の中に、歴史上の人物が巧みに配されそれぞれに生きているので、感動的なドラマを見るように興趣深い。歴史小説は史実に縛られ、人物を描くには制限があるが、史実をしっかり押さえた蓋然性が高く、帯にあるように「静謐な熱を込めた筆致」による歴史小説に仕上がっている。
「序 石橋山」は「治承4(1180)年8月23日、相模国足柄下郡石橋山――」。無位無官、流人の身の頼朝と、時政の反対を押し切って強引に夫婦となった姉政子の判断は、本当に正しかったのだろうか、との若き18歳の義時の疑問からはじまり、「小四郎こと北条義時、無残な初陣」が描かれる。
「一 江間義時」は一挙に6年後に飛ぶ。鶴岡八幡宮の静御前の舞を見つつ、頼朝の旗揚げから静の舞までの間の、源平盛衰の歴史が語られる。
果たして、義時は北条の後継者であったか。石橋山の戦いで時政の長男の三郎宗時(さぶろうむねとき)が戦死したので、次男の四郎義時が時政の後継者となったとするのが通説であったが、父の後妻牧の方(まきのかた)によって義時は北条の主筋から外されていたようだ。本作も「晴れて北条の統領となることが何よりの志である」(69頁) 義時の野望が政子と頼朝との結婚に始まる人間模様の推移の中に秘められている。
義時の姉夫婦を見る目が面白い。そもそも、すべては政子が頼朝を恋い慕い、山木判官の屋敷を逃げ出して頼朝の妻となったことからはじまり、北条家はこの国の権力の頂点に立っている。
将来の禍根を絶つために義経や義仲の子を平然と粛清する頼朝と胆力があり機を見るに敏な政子。両人に共通するのは残酷さ、身勝手さで、夫婦の心底は常人の思いもよらぬものだが、「策略がなくてはこの世は渡れないことを教えてくれた」(49頁) のはこの夫婦である。伊豆の片田舎の小豪族の家に生まれ育ち、北条家の郎党として終わるはずだった義時はこの二人についていくしかないと自身の命運を二人に賭ける。
「二 頼家」――。義時の生涯に転機をもたらすのは建久10(1199)年1月13日の頼朝の死去である。時に義時37歳、後半生の幕開けといってもよい。「頼朝の死は、平氏討伐や藤原氏討伐より、長く過酷な戦の始まりであった」(87頁)と作者は語り始める。頼朝の急逝は梶原景(かじわらかげ)時(とき)の排斥、比企(ひき)氏の誅殺を引き起こし、続いて、畠山(はたけやま)重忠(しげただ)の討伐、牧氏の乱、和田(わだ)合戦(がっせん)と幕府を揺るがす事件が次々と起こる。幕府草創期に頼朝を支えた有力御家人が北条氏の謀略によって次々に滅ぼされて、北条氏は幕府の実権を我が手に収めていく。事件の陰に、北条氏の暗躍があったことは明々白々であるが、その中心となった人物は誰かというに、史料からは特定できず、小説の世界では、政子と義時であるとするもの、時政であるとするものなど様々な解釈・造形が生れている。本作では、比企(ひき)能員(よしかず)謀殺の際には「義時には何の報せもなかった」(154頁)とするように、義時と政子とは二人三脚ではない。つねに軌を一にしていると思われる北条一族は一枚岩ではなかったことは事実であろう。
北条一族による政治支配のそもそもの始まりは、頼朝の死、頼家の家督相続から3カ月足らずの建久10年4月に、宿老13人による合議制の導入を決められ、後継将軍頼家(よりいえ)による訴訟親裁を止めたことである。
が、ここにも歴史の謎がある。そもそも、いわゆる「鎌倉殿の13人」による合議制の発案者は政子か、時政か。そもそも13人のメンバーを選んだのは誰か。小説の世界でも解釈はこれまた多々あるが、本作では政子と政所別当の大江広元の計らいで義時も加入したとしている。
頼朝の未亡人で、頼家の実母である「尼御台」の政子の将軍頼家の外戚である比企一族に対する考えは「北条が、この政子がいなければ、今のこの関東はなかったはず」「北条より出すぎることは許さない。絶対に」(84.85頁)とするもので、「政子の数珠を握りしめる音がぎりっと鳴った」という表現がこのシーン以外にも何度か登場するが、生来強気で負けず嫌いな政子の性格を描写して余りある心躍る表現である。
元久元(1204)年7月の頼家の死は謎に包まれている。頼家の粛清、実朝の将軍擁立は政子の暗黙の了解なしでは行えず、政変の首謀者は時政だとするのが、定説であろう。暗殺命令は時政が下したとする小説もあるが、本書では、意外と時政の露出度が低い。時政は関わっていないのだろうか。前年7月、頼家は俄かに病で倒れるが、その時、「頼家は北条氏に毒を盛られて倒れた」とする小説もある。
“乳母や比企氏出身の妻・姫の前の縁で比企氏に取り込まれていく頼家”VS“頼家の前途に見切りをつけ生家北条氏の一員としての意識が強烈な政子”の構図は一見ね尤もらしいが、そもそも、頼家の死に、生母政子がどういう立場にいたのか。
作者は「姫の前との今の暮らしを、何よりもかげえのないものと思っている」
(88頁)と、どこにでもいる平凡なひとりの夫としての義時を描く一方で、義時がかねて政子に頼家の嫡男一幡以外の3人の男子の命も絶つよう進言(135頁)するとともに、頼家暗殺は義時が政子に謀って許可を得、義時が自分の配下に残忍な手口で実行するよう命じたこと(136頁)、政子の言われるがままに行動し、頼家の正室若狭局と頼家の息子・一幡を由比ガ浜で殺す義時を描いている。この落差はあまりにも大きすぎる。
義時がまったくの別人格のように豹変し、その本領を発揮し始めるのは、比企氏を滅ぼし、頼家を幽閉、暗殺した事件からであると、作者は見做しているのである。
「三 時政」――。頼家暗殺の一年後の元久2(1205)年閏7月、時政追放劇。
強引な父時政を、父の轍は踏むまいと、策略して鎌倉から追放すべく、引退に追い込んだ義時は執権となり、政務の実権は政子と義時に移る。
晴れて、義時は43歳にして、「江間」から「北条」に改める(174頁)。
「五 実朝」――。実朝の暗殺も謎に包まれている。真相は藪の中であり歴史は何も語らないが、作者は頼家の排除の段階で実朝の運命も決していたと見做しているのであろう、作者の筆は淡々としている。
本作のキーワードは「運命の輪」。「輪」は「環」に通じる。このことばから永井路子の『炎環』を連想。『炎環』に「炎環」なることばが一度としてでてこないように、本作には「運命の輪」なることばはみあたらず、あるのはただ「強い光の輪」の「輪」のみである。「炎」と「運命」は「いのち」であり、「環」と「輪」は“連続するもの”の意味であろうか。
北条氏はその巧妙な策略によって政敵を次々と滅ぼし、北条家の独裁体制を確立していった。義時は時政や政子が狂気にさえ似た異様な光を放つ「いのち」の炎を燃やし続けて登ろうとした権力への道を「環」を太くし、「輪」を拡げるように昇りつめ「余りにも異例な生涯」(315頁)を全うしたのである。
(令和4年2月5日 雨宮由希夫 記)