リレーエッセイ

リレーエッセイ第9回 喜安幸夫

猫よりも鶏なればこその話/喜安幸夫

 

 リレーエッセイの末席につながらせていただくことになり、不意に思い起こされた短編時代小説がある。岡本綺堂の『半七捕物帳』に出てくる「大森の鶏」である。  私が『半七捕物帳』にはまって全巻取り揃え、読みふけったのはかれこれ十年以上も前のことになる。いま猫にまつわるエッセイを読み、その短編の内容がまざまざと思い起こされてきたのだ。そこに私は、岡本綺堂という作家の凄さを、あらためて痛感させられた。「大森の鶏」のあらすじは、およそ次のようなものだった。  半七が川崎大師へ参詣に行く。その帰りである。六郷の渡しで舟待ちをしているあいだに、色っぽい年増女と軽く言葉を交わす。半七はその女に見覚えがあったが、どうしても思い出せない。  女とおなじ舟で川を渡った。六郷の渡しから江戸へ向けいくらか進めば品川で、その手前の大森のお休み処の茶店の縁台に座り、茶を飲んでいた。そこへ女の悲鳴が上がる。事件である。悲鳴は半七にすこし遅れて来た、あの年増女だった。なんと女は茶店の飼っていた大きな雄鶏に、突然襲われたのだ。雄鶏は逃げまどう女に執拗に飛びかかり、まわりの男たちが鶏に伏せ籠をかぶせ、ようやく騒ぎを収めた。  半七は鶏がなぜ女を執拗に襲ったかに興味を持ち、茶店の亭主に訊くと鶏は最近生き物の売買人から買ったものだった。鶏は財産であり、売買の対象になっていた。その経路をたどると、それは葛飾柴又の鳥鍋屋で飼われていた鶏だった。一年ほど前に亭主が大川へ夜釣りに出かけ、水に落ちて死亡し、女房は店をたたみ、そのときに家財と一緒に飼っていた鶏も売り払い、その鶏が幾人かの手を経て大森の茶店に飼われたのだった。  その聞き込みの過程で、半七はようやく思い出した。柴又の鳥鍋屋に以前行ったことがあり、女はそこの女房だったのだ。女は鳥鍋屋を閉めてから品川に移り、番頭一人を置いて旅籠の飯盛り女などの口入れをする桂庵をやっていた。その番頭こそ女の情夫で、二人で共謀して亭主の夜釣りを狙い、殺害したのだった。  半七の探索でそれらが明るみに出るという展開だが、これがもし犬だったら忠犬物語になり、猫だったら殺された亭主の怨念が憑依した化け猫騒動になるだろう。どちらもありきたりで、誰しもが考えつく作品になり、読んでもさほど印象に残らず、十年も経ればそんな短編を読んだことがあるとの記憶はあっても、作者や題名、どこに収録されていたかなど覚えていないだろう。一連の猫のエッセイから、それらが鮮明によみがえってきたのは、題材が鶏という、読者の意表を突くものだったからに違いない。そこに私は岡本綺堂の巧みさを感じるのだ。もし私が因縁めいた物語を組み立てるとすれば、やはり真っ先に考えつくのは猫か犬だろう。まだまだ私は未熟なのだ。もっと頑張ろう。  (了、字数一一六〇字)

 

プロフィール

喜安 幸夫(きやすゆきお) 昭和十九年生まれ、兵庫県姫路市出身、埼玉県新座市在住。平成十年『台湾の歴史』で日本文芸家クラブ大賞ノンフィクション賞受賞。平成十三年『身代わり忠義』等で池内祥三文学奨励賞受賞。著作は時代小説では『大江戸木戸番始末』シリーズ、『隠密家族』シリーズ、『闇奉行』シリーズ等、近未来小説では『2018尖閣決戦』、『中国崩壊 尖閣決断の日』等。

 

リレーエッセイ

前走者👈 👉次走者   ※リレー第一回スタート走者

リレーエッセイ

リレーエッセイ第8回 松永弘高

老婦人と猫/松永弘高

 

 

 猫は経典とともに我が国にやってきたらしい。天堂晋助さんも先のエッセイの冒頭に書いておられる。  私も、そう聞いている。経典を鼠の害から守る為に猫を船に乗せたようだから、当初は経典が主で、猫は従の立場だったようだ。  こんにち、経典と猫の関係は完全に逆転した。経典の多くは仏教経典だったろう。今や我が国の仏教界は、檀家の寺離れで青息吐息だ。いっぽう、猫は二〇一七年ごろ、ついに犬を抜き、我が国で最もメジャーなペットとなった。栄華を極めているといってよい。  しかし、猫は決して人間に飼われたりなどしないのだ、と私は思っている。あの蠱惑的で、身動きしなやかな獣は、人間を気の利いた世話役、忠実な奴隷にしつけているのであって、飼われているのではない。  実家の近所に上品な老婦人が住んでおられる。  昔から、どんなときでもきちんとした身なりをし、やや潔癖すぎるくらい綺麗好きで、界隈ではまず聞くことがない、丁寧で上質な日本語を使い、凛然としている。お婆さんと呼ぶのが失礼に感じるほどだ。 この方が猫を飼うことになった。なんでも、親戚が捨て猫を拾ったものの、飼えなくなったらしい。子供もおらずひとり暮らしのこの方に、白羽の矢が立った。親戚付き合いもたいがいにしないと、災難を招く。  老婦人は動物がお好きではないというのに……。  ドラと名前も付けられてやってきた元・都会の捨て猫は、東京都の一部とは思えぬほど自然豊かな環境に移り、野性に目覚めた。狩りを始めたのだ。しかも、新しい世話役に対し、狩猟の成果を誇った。  Gと呼ばれる黒い虫を五匹仕留め、廊下に並べて老婦人を絶叫させた。Gはまずいと悟ったのか、蝶も同数、ベランダに並べた。玄関で血まみれの小鳥をいたぶっているのを発見した際には、温厚な老婦人も箒を振るってドラを追い、小鳥を逃がしたという。  家具は爪研ぎとなり果て、老婦人の優雅な日常は失われた。  老婦人が私の母と交わす世間話の話題は、ほぼ、ドラの愚痴で占められるようになり、変化が訪れた。  身なり完璧、やや潔癖だった老婦人の服にドラの毛が付いている日が多くなったのだ。かつてでは、考えられない事態だ。  当初、しかめ面で語られた愚痴は、やがて笑顔で披露されるようになる。動物を飼ったことのない我が家の人間には、到底笑えないエピソードも多かった。 「ドラ」  と呼ぶ声も、まさに猫撫で声に変わっていった。  十年に渡る老婦人との暮らしののち、老婦人を残してドラは世を去った。  優雅で節度ある暮らしを取り戻した老婦人は、ときおり、こうこぼす。 「やっぱり猫だけは嫌いだわ。ドラに死なれてしまったときほど、悲しい思いをしたことはないもの」 と。  猫はかくも恐ろしい生き物なのだ。人間に飼いならせるものではない。人生を賭けて、忠誠を誓えないひとは、世話役に志願するのも止めておいたほうがいいだろう。

(了・本文 一一七一字)

 

リレーエッセイ

前走者👈 👉次走者   ※リレー第一回スタート走者

 

【プロフィール】 松永弘高(まつなが ひろたか) 一九七六年生まれ。東京都出身。 二〇一四年、第六回朝日時代小説大賞優秀作を受賞。翌一五年、受賞作を改題改稿した「決戦!熊本城 肥後加藤家改易始末」でデビュー。第五回歴史時代作家クラブ新人賞に選ばれる。 「戦旗 大坂の陣最後の二日間」、「奥羽関ケ原 政宗の謀・兼続の知・義光の勇」、「決戦!広島城 天下大乱の火種を消せ」(いずれも朝日新聞出版より)などの著作がある。

以上。

リレーエッセイ

リレーエッセイ第6回 盛池雄峰

廃仏毀釈を生き抜いた三重の塔ーー三十年ぶりの邂逅/盛池雄峰

 

 

 松代大本営を訪れたのは、大学一年の夏だから、もう三十年も前のことになる。大学生になったら、最初に信州を旅しようと、バイトして買った一眼レフを首に下げて、早暁、八王子駅を発った。  中央本線と小海線を乗り継いで臼田駅に降り立ったのは十時前。ここから徒歩二十分ほどで龍岡城に着いた。武田信玄絡みの山城かと思っていたが、なんと五稜郭だった。五稜郭なんて、函館だけかと思っていた。それにしても、どうしてこんな辺鄙な場所に、かくもハイカラな城郭が築かれたのだろうか。今もって、その謎は解けない。  つぎに訪れたのは新海神社。拝殿の裏手には、なんと三重の塔。元はお寺だったが、廃仏毀釈をやり過ごすために、急遽神社に衣替えしたそうだ。歴史は面白いね。  塔の周囲をめぐっていたら、絵筆を動かす老婦人が目に入ったので会釈した。大きなキャンバスを前にして、おしゃべりするうちに仲良くなり、昼食のお招きを受けた。  田んぼの中の一軒家。よく実った稲穂を吹き抜ける風が香しい。ご婦人はここで、元中学教師のご主人と悠々自適の老後生活を送っていらっしゃる。ご夫妻はともに旧樺太の出身で、命からがら内地に逃げてきたという体験を持つ。このときの戦争体験談があまりにも面白く、その後の聞き書き活動の出発点になった。  食後のコーヒーをすすっていると、「ぜひ、松代にも足を運んでみるといいですよ」とご主人。不勉強にして「松代」を知らなかったが、戦争遺跡にも興味が出てきたので、さっそく訪ねてみた。そこでも、びっくり仰天。太平洋戦争末期、こんなところに政府の中枢部を移そうという計画があったとは……(ちなみに移転先候補は二つあって、もう一つは、いま私が暮らす「高尾」だった)。  あれから三十年、昨夏、気まぐれに臼田に宿をとってみた。自慢の鯉料理で一献やるのが目的だったが、思いもかけず、よき出会いがあった。御年九十になる女将さんは、土地の事績にとてつもなく詳しい方だったのだ。 農村医療で名高い佐久総合病院の若月俊一医師。彼の人生は『信州に上医あり』で読んでいた。この本の著者は、同病院の医師であり、芥川賞作家でもある南木佳士さん。私は『阿弥陀堂だより』をはじめ、何冊も読んできた愛読者で、以前仕事でお世話になったこともある。  斜向いには橘倉酒造。ここを営む井出家は地域の名家で、井出一太郎や井出正一といった政治家や評論家の丸岡秀子、作家の井出孫六らを輩出した。井出孫六さんの秩父事件関係の著作は何冊も持っている。これまで本を通じて触れてきた人や地域の生々しいエピソードは、とても刺激的だった。少年時代、胸を熱くした「東洋一のパラボラアンテナ」も臼田宇宙空間観測所にある。その建設をめぐる裏話にも身を乗り出した。  こんにち佐久市の一部である旧臼田町は人口わずか一万ほどの小さな町だ。ここに、これだけの「物語」が凝縮されているのも不思議でならない。臼田の濃さに酩酊していたら、三十年前に出会った老婦人のことを思い出した。  尋ねてみると、「それはSさんですよ」と、その場で連絡してくださった。翌日出向いてみると、私のことを覚えてくれていて、すでに絵が用意されていた。あの日、デッサン中だった三重の塔が、色鮮やかに描かれていた。お譲りしたいとの申し出に、私は飛び上がってよろこんだ。両手でようやく抱えられるような大きな絵を、うやうやしくクルマの荷台に載せた。すでに、ご主人は亡くなっていた。Sさんは愛猫とともに、私の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。

※次は天堂晋助さんです。

 

前走者👈 👉次走者   ※スタート走者

 

 

盛池雄峰(せいけ・ゆうほう):

昭和四四年、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業。株式会社昭文社にて旅行ガイドの編集職、株式会社リクルートにて起業情報誌の営業職を経て起業。NPO「昭和の記憶」で第十七回社会起業家賞受賞。NHK「おはよう日本」、朝日新聞「天声人語」などで紹介される。 拓殖大学客員教授、USENラジオ「耳学問の盛池塾」パーソナリティを歴任。現在、一般財団法人盛池育英会理事長、医療法人松寿会理事。 「コンプリート」が趣味で、JR全線完全乗車、全国一宮御朱印集め、お遍路さん巡りなどを達成。現在、息子とともに、五木寛之の「百寺巡礼」に取り組んでいる。 著作には、司馬遼太郎全作品から自己啓発的なエッセンスを超出した『英雄問答~「司馬遼太郎」で男の修行』(ゴマブックス)をはじめ、『北方四島の記憶』『駅の記憶』などの聞き書き集(日本財団後援)がある。

リレーエッセイ

リレーエッセイ第5回 橘かがり

信州旅行の果てに見たものは/橘かがり

 

 

 8月下旬つれあいと共に信州の温泉地に3日ほど湯治に出かけた。長時間のマスク着用で生じた肌の炎症を、温泉で癒したいというのが表向きの目的だったが、肌以上に荒んでいるのは精神で、緊張の続いた心の凝りを少しでもほぐしたかった。  戸倉上山田の温泉に浸かり、日本三大車窓と言われる篠ノ井線・姨捨駅に夜景を見に行った。550mの山腹に位置する姨捨駅では、ホームのベンチが線路と反対側に向けられていて、電車を待つ間に景色を楽しめる趣向になっている。終電も過ぎ、誰もいないホームに座り、目の前に茫洋と広がる善光寺平の夜景を眺めた。ここは川中島の戦いで知られる古戦場跡でもあると聞く。一体ここでどれだけの人が亡くなったのだろう。雲に遮られ月が見えないのが惜しまれたが、虫の声が聞こえる以外はほとんど無音で、そこはかとなく寂寥感が漂う。都会とは全く違う夜が広がっていた。周辺は日本の棚田100選にも選ばれていて、水田に映る月は古くから「田毎の月」と呼ばれて、和歌にも多く詠まれている。

 

隈もなき月の光をながむれば まづ姨捨の山ぞ恋しき 西行

 

 宿に戻り、夢も見ずにぐっすり眠った。さて翌日何処に行こうかと考えていると、「松代はいかがですか。ここから30分くらいですよ」と勧められた。城下町として栄え、長野盆地の中心的都市だった松代には、見どころがいくらでもあると聞く。だが松代と聞いて、寺社や城址よりも真っ先に行きたい場所があった。ドキュメンタリー番組で見てからずっと気になっていた松代大本営跡の地下壕だ。  松代大本営地下壕は、舞鶴山を中心として皆神山,象山に碁盤の目のように掘りぬかれ、全長10キロメートル余りに及ぶというが、その一部が見学可能なのだ。第二次世界大戦末期、軍部が本土決戦最後の拠点として、大本営、政府各省をこの地に移すという計画の下に、1944年11月11日から翌年8月15日まで約9ヶ月にわたり建設されたもので、全工程の8割が完成していたという。計画は極秘裏に進められ、当時の金額で1億とも2億とも言われる巨額が投じられたらしい。労働者として日本人だけでなく、多くの朝鮮の方々も動員されたと聞く。食糧事情も非常に悪い中、工事は1日2交替から3交替で進められ、工法も旧式な人海作戦を強いられたという。この地が選ばれたのは地盤が強固だという理由もあるようだが、工事はどれほど苛烈を極めたことだろう。  訪れたのは35度近い猛暑の午後だったが、ヘルメットを被っておそるおそる内部に入ると、中は薄暗く、不気味なほどひんやりとしていた。100mほど歩いたところでコウモリの群れに遭遇して、やむなく先に進むのを断念、引き返して犠牲者の慰霊碑に手を合わせて帰った。  途中で引き返したのは残念だったが、実際に足を踏み入れてみて、忘れられないほどの衝撃を受けた。軍部はこの地に皇族や高官らを移し、一億玉砕するまで戦うつもりだったというが、狂気の沙汰としか思えない。この馬鹿げた計画を、誰にも止めることはできなかったのだろうか。今では地下壕を訪れる人も少なく、知る人ぞ知る場所になってしまっている。私もドキュメンタリー番組を見るまでは詳しく知らなかった。  前回エッセイを書かれた久宗氏の文中に「戦争をさせないために」という一文があり、松代地下壕のことを書かずにはいられなかった。第二次世界大戦で何が起こっていたのかを、我々日本人は、実はまだよく知らないのではないか。そう思わずにはいられなかった。松代大本営跡地下壕は、戦争の愚かさ、虚しさ、無意味さを、これでもかと見せつけてくれる貴重な戦争遺跡である。

※次は盛池雄峰さんです。

 

前走者👈 👉次走者   ※スタート走者

 

橘かがり 東京都生まれ。早稲田大学第一文学部西洋史学科卒業後、都市銀行外国為替部勤務。塾講師を経て2003年「月のない晩に」で小説現代新人賞受賞。現代史ノンフィクションノベルを中心に執筆。著書に『判事の家』『焦土の恋』『扼殺~善福寺川スチュワーデス殺しの闇』など。日本ペンクラブ平和委員。趣味は香道・煎茶道・絵画観賞・バレエ観賞。