雨宮由希夫

書評『信長、天が誅する』『信長、天を堕とす』

書名『信長、天が誅する』
著者名 天野純希 
発売 幻冬舎
発行年月日  2019年11月25日
定価  本体1600円(税別)

信長、天が誅する (幻冬舎単行本)

信長、天が誅する (幻冬舎単行本)

 

 

書名『信長、天を堕とす』
著者名 木下昌輝
発売 幻冬舎
発行年月日  2019年11月25日
定価  本体1600円(税別)

信長、天を堕とす

信長、天を堕とす

  • 作者:木下 昌輝
  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: 単行本
 

 

 当代の歴史小説界を牽引する若き作家・天野(あまの)純希(すみき)(昭和54年、愛知県生まれ)、木下(きのした)昌輝(まさき)(昭和49年、奈良県生まれ)による「織田信長」の競演競作である。
 1)桶狭間の戦いから2)姉川の戦い、3)長島一向一揆との戦い、4)長篠設楽原の戦いを経て、5)本能寺の変に到る、5つの歴史的局面を章立てし順次取り上げ、しかも、相呼応する形で執筆した二人の作家による連作短編集である。

 天野の『信長、天が誅する』は信長と敵対した人物の立場・視点から信長を見つめ間接的に信長像に迫るに対して、木下の『信長、天を堕とす』は信長自身の視点から信長の生涯を描いている。両作品は「小説幻冬」の2016年12月号~2019年3月号に相互に連載され、2019年11月に単行本として同時出版された。
 信長とは何者か。両書とも、「天が誅する」「天を堕とす」と「天」がテーマである。そもそも「天」とは何か。「天」とは大義名分を超越する理念であろう。信長の掲げた天下布武の旗印も「公」にはなり得ず「私」にすぎない。「天」をめぐって切り結ぶ両作家がいかなる信長像を描くのか、章ごとに、読みすすめたい。

第一章 桶狭間の戦い 永禄3年(1560)5月

 信長はなぜ、桶狭間で義元を討つことができたのか。桶狭間の戦いは多くの謎に包まれている。今川義元の天下取りを目指しての上洛であったとするのは近年の研究ではおおむね否定されている。信長の「迂回奇襲作戦」も然りである。桶狭間の地形の陰に入ることで信長の強襲作戦は奏功したのだが、進撃ルートの謎は残る。信長の一生は桶狭間の快挙の中に封じ込まれているだけに、両作家がそもそも桶狭間をいかに描くか興味がつきない。
 【天野の「野望の狭間」】――。今川の支配下にある井伊家の立場、桶狭間の戦いで先陣を強要された義元の家臣・井伊(いい)直盛(なおもり)(女城主直虎(なおとら)の父)の立場から、桶狭間を見ている。義元の本陣の場所がなぜ信長に知られたのか。それは味方の中に内通者がいるからであり、その人物こそは松平元(まつだいらもと)康(やす)(後の家康)だと直盛はみる。内通者を家康とするのは天野、木下共通である。
 【木下の「下天の野望」】――。義元の居場所を知りさえすれば、乾坤一擲の野戦にて、義元と雌雄を決することができる。己が率いる馬廻り衆で、尾張の平定を策する義元の首を取る。それが若き信長の秘策であった。
 腹心の岩室(いわむろ)長門守(ながとのかみ)に「敵に正しく慄き、その上で恐怖を乗り越えろ」 と諫言されて以来、自分を恐怖させるものを求め続けた信長。合戦の後、桶狭間山に登り、輝く伊勢湾を見るシーンがある。信長の後方には岩室長門守がいる。「一を聞いて信長の十を知る才覚の持主」の岩室は森乱、明智光秀へとつながる本書のキーマンである。

第二章 姉川の戦い 元亀元年(1570)6月

 姉川の戦いは浅井・朝倉氏の命運を決めた大合戦とされる。信長VS長政の戦いを政略結婚により浅井(あざい)長政(ながまさ)に嫁いだ信長の実妹お市(いち)の方を通して描いているのは天野、木下共通。
 元亀元年(1570)4月20日信長が越前の朝倉義景を攻めるため敦賀に出陣した際、浅井長政は離反する。2カ月後の6月姉川の戦い。浅井・朝倉氏の滅亡は天正元年(1573)8月のこと。凡そ3年にわたり両家は信長を苦しめた。
 【天野の「鬼の血統」】――。お市の気持ちの変遷が克明に記される。兄信長を慕っていたお市は信長との戦いが避けがたいとなるや、家中の意見が二分する評定の場に乗り込んで、織田家から離反すべきを説くのである。
 天正元年(1573)の小谷城落城、信長の陣。信長は「わしは人であることなど、とうにやめておる」と語る。お市には兄だという思いすら、すでにない。そのお市が幼い茶々らに語りかける言葉がすさまじい。「強き男を選び、天下人たる子を産み、織田家を滅ぼせ」と。長政の血統が天下の覇者となることを後世の我々は知っているが、それにしても、織田家の滅亡を我が子に託したお市を、これまで誰も描いてはいない。

 【木下の「血と呪い」】――。情よりも利のみを求め必要ないものを事も無げに斬り捨てる信長は「長政に野心あるや否や、野心なき者は強者たり得ぬ」とお市に告げる。「野心無き者を信用しない信長」とするのは天野に同じ。
 小谷城落城。「市の娘たちを生かしておいて、己(信長)を恐怖しない者(藤吉郎と家康)に嫁がせれば」と思案しつつも、信長の母・土田御前から続く母娘三代にわたる呪に、信長が打ち震えるシーンは壮絶である。
 家康と秀吉、二人の人物造形も読みどころ。姉川の戦いにおいて、ことに家康は信長の過酷な命令に怖気を見せなかった。学識教養のある光秀のように拘るべき価値秩序もなく、失うべき何物もなかった秀吉と、自己を韜晦するのに老獪で信長との距離を本能的にとることができた家康の実像が浮かび上がる。

第三章 長島一向一揆との戦い

 天下布武を標榜して武力による天下一統を目指していた信長は、「分」をわきまえず、武装門徒集団と化し、世俗の政治抗争に介入するなど、宗教者の領域からの越境に対しては過酷な制裁を躊躇しなかった。元亀元年(1570)に始まった石山合戦戦国大名を敵とした諸合戦のとの違いは、石山合戦こそはまず単発の戦闘ではなく、足掛け11年にも及ぶ戦いであったことである。信長が天正2年(1574)ついに長島の一向一揆を鎮圧できたのは、武田信玄の死や浅井朝倉氏の滅亡などにより信長包囲網の様相が激変したことによる。
 天野は長島の一向一揆に絞って記し、木下は天正8年(1580)石山本願寺の明け渡しで石山合戦の幕が閉じるまでを記している。
 【天野の「弥陀と魔王」】――。姉川の戦いの3か月後の元亀元年(1570)9月、本願寺第11世法主(ほっす)顕如(けんにょ)上人から、仏敵信長を討つために伊勢長島の門徒を指揮せよと指示された本願寺の坊官下間(しもつま)頼旦(らいたん)の眼を通じて、伊勢長島が殲滅されていくプロセスと結末が描かれる。顕如の援軍を最後まで信じるも、捕らわれて信長の前に引き出された頼旦が、信長と「弥陀」のあり様をめぐって交わす言葉の応酬の中に、「魔王」信長像が鮮やかにうかびあがる。
 【木下の「神と人」】――。三好、六角、朝倉、浅井らの戦国大名より、本願寺比叡山の坊主どもを手強いと見る信長は仏道の真理を問い、仏の何たるかを知ろうとし、ついに、変容した仏陀の教えにすがる信徒が参集する比叡山、大坂、長島の、三つの聖地を「焼く」ことを決心。浅井朝倉氏が和議に応ぜず比叡山に居座り続ければ、「遠からず信長は滅んだ」とは木下の歴史認識である。酸鼻を極めた掃討殲滅作戦。「銃撃はつづき、舟の上で一向宗が躍る」騙し討ちで根切り(皆殺し)にするシーンが凄まじい。

第四章 長篠設楽原(しだらがはら)の戦い 天正3年(1575)5月

 そもそも信長にとって武田信玄はいわば最強の難敵にして宿敵。信長の真に畏怖すべき相手は天皇でも神仏の権威でもなく信玄その人であった。本願寺顕如を主軸に、各地の一向一揆、浅井朝倉氏ら畿内の反織田勢力と通謀して信長包囲網をつくったのは信玄であった。
 長篠設楽原の戦いは鉄砲「三千挺」の一斉射撃で戦国最強を誇る「武田騎馬軍団」を撃退した画期的な戦いとされてきた。が、「三段撃ち」戦法も後の世の創作とされる。また、明智光秀は長篠の戦には参陣していないとする説がある。
 【天野の「天の道、人の道」】――。 新府城に火を放ち、落ちのびようとする勝頼が三方ヶ原の戦いや設楽原の戦いなどの信長との数々の戦いを回想するシーンから始まる武田勝頼(たけだかつより)の一代記。 
 勝頼は信玄の後継者だが、勝頼を陣代という曖昧な立場においたのは他ならぬ信玄。これが武田家滅亡の因となったと私は思うが、その信玄に天野は、今わの際の言葉として「あ奴(=信長)は、天道さえも味方に付けている」と吐かせている。「信長はいずれ、天をも従えるつもりだ。信長の意思こそが天道。私は人の道をあるきたい」と勝頼。信長に恐れと憧れを抱き、親近感さえ覚えていた勝頼は信長とは逆に人の道を歩もうとして滅んでいったとする。
 また、「武田家は日ノ本最強の大名家だが、信玄という要を失えば国人・土豪の寄合所帯にすぎない」と甲州軍団の体質の古さを鋭く指摘している。
 【木下の「天の理、人の理」】――。
 桶狭間の戦いでも長篠設楽が原の戦いでも雨。天は信長に味方してくれた。
設楽原は桶狭間に地形が似ていると信長は思う。設楽原が桶狭間と決定的に違うのは、信長が武田軍の斥候を近づけず、勝頼に織田軍の行動を秘匿させたことだと著者は描く。光秀と秀吉と。伏兵の将ふたりを置き、旗を焼くことで二人の違いを浮かび上がらせるのは、天野と同じである。
 設楽原の合戦後に見せた勝頼の采配の数々を見て信長は、信玄は金山頼みの財政戦略しか持たなかったが、勝頼は違うと再評価。が、最後の強敵と期待した武田勝頼もあっけなく滅んでしまう。「己には、強さをあかすための敵さえもおらぬのか」、「天よ、なぜこの信長に鉄槌をくださぬ」と信長。
 武田軍がもろくも崩壊したのは浅間山の噴火、天変地異であった、とする木下の歴史認識も披露されている。

第五章 本能寺の変 天正10年(1582)6月2日

 本能寺は桶狭間から始まった信長の天下布武に向かって駆けた苛烈な戦いの生涯が一気に収束する最期の詩(とき)。本能寺にはいろいろな解釈がある。多くは光秀の動機である。信長がどのような政権構想を抱いていたかも謎のままである。謀反そのものはとっさの思い付きと見るべきなのであろうかとする、怨恨、野望の両説どちらの枠にも属さないような新解釈が次々と発表されているが、両者の筆やいかに。光秀が比叡山延暦寺の焼き討ちを非情に行い、信長似の苛烈さを備えた武将として描かれるのは両者共通。
 【天野の「天道の旗」】――。 弘治2年9月、美濃明智城 陥落にはじまり、「敵は、本能寺にあり」で終わる明智光秀一代記。
 信長を踏み台にして、己が天下人になるという野心をもって本能寺の変を起こしたとする明智光秀像は一見、野望説に近い。織田家の柱石として活躍した光秀は信長という主君に不満なく、織田家をここまで押し上げたのは自分だとの自負があった。信長に老いたと宣告され、さらに信長が最終的に目指すものが何であるかを知らされるに及んで光秀は決意した。安土築城後、信長は自分で自分を神に仕立て上げ、その超越的神威の中に天皇権威を包摂する姿勢を明らかにしていた。それを見た光秀は、「信長は己の強さを証し立てるために己を神とするならば、光秀の生とはいったい何だったのか」と振り返り、「自分の存在こそ天が信長に与える鉄槌」だ、と行動に走ったとする。

 【木下の「滅びの旗」】――。
信長の思考に追いつき、献策する者として、かつて、岩室長門守があったが、光秀はその後継者といえた。信長は光秀の苛烈さが己に似ていると思っていたのは勘違いで、「あれは己の父の信秀にそっくりだ」、と物語る。
設楽原で光秀は旗を焼くことに恐怖した。信長と光秀が決定的に違うのは「光秀が恐怖を知っていることだ」とも。
 変当日の朝、「三郎(=信長)よ、お前は弱い」との父の声を聞く信長。この言葉を受け入れた今は不思議と心地よい疲れが信長を包んだとする。信長の生涯には安息の時間がなかったが、まさに生涯最後の日に、緊張の連続であった生涯を終える安堵感にはじめて安らぎを覚えたという。なんという生涯であったのかと同情するほかない。
 明智勢が攻めかかるなか、信長自身も弓や槍をとって応戦。父の位牌に抹香を叩きつけた頃と奇しくも同じ格好で、である。
 信長にとって父信秀の葬儀、「この瞬間から乱世の申し子として新しい生を享けた」と、作者は父の葬儀の重要さを改めて指摘している。

 「信長戦記」を代表する五つの戦い。それぞれの戦いの一つ一つの史実を立ち止まって質そうとする二人の作家の真摯な姿勢にひかれつつ、読むことの醍醐味を味わうことができた。天野の『信長、天が誅する』は信長の存在に畏怖しながらも対峙する各人の対峙したからこそ見えた信長の人知を超えた凄み信長の異常さ、信長の真の姿が活写されている。木下の『信長、天を堕とす』は戦乱の荒野を走り続けることでしか己の生を確認できなかった孤独な男の哀しみを抉り出している。真の「強さ」を得る為に敢えて己れを危機的状況に追いこむ人間臭さを持った信長の姿がこれまた活写されている。
いずれも劣らぬ歴史小説の良作である。新たな信長像や本能寺が生まれた。

 蛇足ながら、共演競作による両書以外に、ほぼ同時期に執筆された〈信長もの〉歴史小説を両作家がものしていることを付したい。
 天野純希の『信長嫌い』(新潮社 2017年刊)は、『信長、天が誅する』同様、信長の敵の目線で書かれた連作、短編集である。今川義元、六角承(ろっかく)禎(じょうてい)、三好(みよし)義継(よしつぐ)、織田秀信ら、信長によって人生を狂わされた7人の男を主役として書き、時系列でつないでいる。初出は「小説新潮」で、2013年10月号より2015年10月号までの足掛け3年間に。〈第六話 丹波の悔恨〉は天正9年(1581)の天正伊賀の乱を描き、百地丹波が「所詮、この男(=信長)もひとであったのか」と声を震わせるシーンが印象的である。
 木下昌輝の『炯眼に候』(文藝春秋 2019年2月刊)は、「信長ほど神仏を敬い、かつそれを攻撃した人物はいない。……そんな信長を支えたのは、合理の心だ」とし、信長の徹底した合理主義に光を当て、時代を突き抜けていた信長の感覚と知能、すなわち信長の「炯眼」が語られる。天野の『信長嫌い』同様、7編の短編よりなる連作短編集だが、初出は「オール讀物」で、2016年1月号より2018年12月号までの3年間に。

 それぞれの著述に要した長い歳月を思うと、信長像をめぐって信長の深層にまで立ち入ろうとする天野と木下の、稀有な歴史小説家の思考の軌跡をまとめたものがこれら4冊の歴史小説であることがわかる。  

 

             (令和2年6月23日  雨宮由希夫 記)