『なぜ武士は生まれたのか』(本郷和人、文春文庫)
本書はNHK放送で人気の「さかのぼり日本史」の四回分(2011年12月6日、13日、20日、27日)を文庫化したものです。それぞれ一回分が1章を成しており、
1. 足利義満「日本国王」の権力 1392年(明徳3年)
2. 足利尊氏「京都」に挑む 1336年(建武3年)
3. 北条時頼万民等知への目覚め 1253年(建長5年)
4. 源頼朝「東国」が生んだ新時代 1180年(治承4年)
の4章に分かれています。
始めタイトルを読んで、私は誤解してしまいました。そのタイトルのように、武士の発生について書かれたものだと思ったのです。ですが、4章のタイトルを見れば分かるように違いました。
あるいは、「さかのぼり日本史」と銘打っていますので、最後は武士の発生に行き着くのかも知れません。武士の発生は、未だに謎の部分が多く、よく分かっていませんので、著者の見解に注目したいところです。
本書は、それぞれ時代のターニングポイントとなった時点を取り上げており、第1章の明徳3年という年は、南北朝の合一が成った年です。
なぜ、この年がターニングポイントかというと、これによって足利義満が「天皇という存在を初めて乗りこえることに成功した武士」だからです、これによって、「日本の実際の政治権力は、この義満の時代から明治維新にいたるまでの約五百年間、武士が握ることになります。」(14ページ)
天皇家が二つに割れることにより相対的にその権威が低下し、それにより各地で武士たちが、納税を拒否したり、公家の土地を収奪したりするようになります。公家は貧しくなり、その地位も低下し、公家と武士の地位の逆転が起きてきます。
武士の頂点である征夷大将軍足利義満は、そんな公家たちを庇護するようになります。それはなぜかというと、義満は「当時の国家秩序を守るという意識があった」からだと著者はいいます。(19ページ)
義満は武家のトップである征夷大将軍ですが、公家の世界においてもトップを目指します。そのような将軍は今までいませんでした。今までは朝廷や公家とは一定の距離を保ってきたのです。
では義満は、どのようにして公家のトップを目指したのでしょうか。本書からその流れを見てみましょう。
応安6年(1373) 従四位下、参議・左中将 義満16歳で公卿の仲間入り
(公卿の位階は三位以上ですが、官職は参議以上です。)
永和元年(1375) 従三位 義満18歳
永和4年(1379) 従二位、権大納言 義満21歳
康暦2年(1380) 従一位
永徳元年(1381) 内大臣
永徳2年(1382) 左大臣
永徳3年(1383) 准三后宣下(太皇太后、皇太后、皇后に准ずる意の称号、皇族と
同待遇になったということになります。)
以後義満は、それまでの公家のトップである摂関家の儀礼に準じた行動を取るよ
うになります。
この頃から、公家は義満を主君に対するように接していくようになり、公武の両
権力を統一的に支配する最高権力者=「室町殿」と呼ぶようになります。(25ページ)
そして、応永元年(1394)には、太政大臣となって位人臣を極めることとなるので
す。
また、義満は天皇の「祭祀権」「課税権」を自らのものとします。(26~28ページ)
そして義満は、南北朝の合一を成し遂げることによって、「改めて朝廷や天皇を凌駕する権力への高みへと到達した」(30ページ)のです。
さらに「日本国王」と名乗って明へ朝貢したということは、「外交権」についても天皇から奪ったということになります。(34ページ)
さて、ここまできて、一頃話題に上った義満の皇位簒奪計画説(自分は太上天皇となり子の義嗣を皇位に就けようとしていたという田中義成説、義満自らが天皇になろうとしたという説)を著者は否定します。(36~38ページ)
義満が天皇を廃して自らが天皇になった場合、「全国の武士が果たしてどういう行動に出たか、全く読めない」、要するにそんな危険なことをするわけがないというのです。(38ページ)
では、どうしたか。武士は「政権を担当(独占)し、天皇を実質的に上回る権力を保持して」おり「それは、戦国時代から江戸時代を通じて変わ」らず、「近現代に至っても、その構造は変わっていない」。(38ページ)
つまり「象徴天皇制」を形成したのが義満だという著者の結論です。
そして、なぜ武士がそこまでになったのか、その経緯を足利尊氏、北条時賴、源頼朝という順に遡りながら見ていくのが本書のテーマといえるでしょう。
全体で144ページほどの文庫本です。文章は読みやすく、論旨の展開も平易で分かりやすいです。特別な知識もいりません。思わず歴史って面白いなあ、中世の歴史って興味深いなあ、と感じていただける本だと思います。