第1回「中古念流」について
いきなり私事で恐縮ですが、この度幻冬舎グループ主催の「時代小説コンテスト」で大賞を受賞しました。
https://www.gentosha-book.com/contest19/era/
来年、電子書籍化されますので、お読みいただければありがたいです。
さて、今回の受賞を契機に筆名を「平野周」と改めて活動をすることとしました。そのため、今後は平野周として歴史エッセイ、新書専門書レビューを発表していきますので、よろしくお願いします。
私は小学生の頃から歴史、特に日本の中世史が好きでしたので、タイトルもそのまま『日本中世史、大好き!』としました。
さて、閑話休題―――。
頼迅庵の歴史エッセイ『江戸の北町奉行柳生主膳正久通 』で、私は柳生久通を「柳生新陰流の達人」と書きましたが、どれくらい強かったかは、実は分かりません。他流との試合結果が分からないからです。
しかしながら、西の丸近侍の士に剣術を指南したこと、将軍家治、世嗣家基の相手(実質的な指南)をしたことを考え合わせると「柳生新陰流の達人」といっても良いのではないかと思います。
柳生新陰流は、柳生石舟斎宗厳に始まる剣の流派です。柳生新陰流又は柳生流は俗称で、正しくは「新陰流」といいます。
新陰流の元祖は、上野の国人だった上泉伊勢守信綱(秀綱)で、信綱から道統を受け継いだのが柳生宗厳なのです。その後、宗厳の五男宗矩が、徳川家康に仕えて大和国柳生で一万石の大名になるなど活躍したことから、柳生新陰流又は柳生流と呼ぶようになったと思われます。
ちなみに、『正伝・新陰流』(柳生厳長、以下「正伝」と略します。)によれば、新陰流の道統は、柳生宗厳から嫡孫兵庫助利厳に伝えられたそうです。利厳は尾州(尾張)柳生の開祖とされている人物です。従って、新陰流の正統は、尾張柳生ということになります。この尾張柳生に対し、江戸の新陰流を「柳生新陰流」と称したともいわれています。(注1)
同じく「正伝」には、「伝書篇」の章に上泉信綱の自筆相伝書として「新影流 影目録」が収められています。原文は漢文です。その中に「凡そ兵法は梵漢和の三国に亘ってこれ有り」から始まり、漢(中国)は元明で断絶したが、我が国においては、伊弉諾尊、伊弉冉尊より伝えられ、
「有上古流中古念流新当流亦復有陰流其外不勝計予究諸流奥源於陰流別抽出奇妙号新陰流」とあります。
これを「正伝」では、
「上古の流有り 中古念流 新当流 亦また陰流 有り 其の外は計(はか)るにたえず 予は 諸流の奥源を究め 陰流において 別に奇妙を抽出して新陰流を号す」(250~251ページ)
と、読み下しています。
ここで述べられている「念流」「新当流」「陰流」を我が国の剣術の三大源流と呼びます。しかしながら、なぜ念流のみ「中古念流」となっているのでしょうか。他の二つと異なり、なぜ「中古」がついているのでしょうか。普通に考えれば、念流の道統が絶えたからと考えられます。しかし、この当時念流の道統は、細々とではありますが受け継がれていました。
念流とは、我が国で初めて流派を称した兵法です。始祖は念大慈恩(慈音)といい、禅宗の僧侶です。出家する前の名は、相馬四郎義元といい、上総国の相馬一族の小領主でした。それがなぜ念流という流派を創出したかは、次の機会に譲りますが、念流の伝系を示すと以下のようになります。
念大慈恩――赤松三首座慈三――小笠原東泉坊甲明――小笠原新次郎氏綱――備前守氏景――左衛門尉氏重――友松兵庫頭氏宗(友松清三入道偽庵)――樋口又七郎定次
樋口家は、木曽義仲四天王の一人樋口次郎兼光を祖とする信濃国の住人でした。その子孫である太郎兼重が、念大和尚に学んで念流を子孫に伝えます。
兼重から三代目新左衛門高重の代に、上野国吾嬬郡小宿村に移り、関東管領上杉顕定に仕えます。後、樋口新左衛門高重のとき関東管領山内上杉顕定に仕えます。明応9年(1500)同国多胡郡馬庭村に移ります。
高重までは念流を伝えていましたが、柏原肥前守盛重に新当流を学び、念流ではなく新当流を伝えていくことになります。高重は永正10年(1513)八十九歳で亡くなりますので、この後の伝系は間違いなく新当流です。
その四代目の定次のとき、友松偽庵に念流を学び、ここから再び念流を伝えていくこととなります。この流れを馬庭念流といい、現在も群馬県馬庭の地で念流を伝えておられます。
定次は天正19年(1591)に目録、文禄4年(1595)に皆伝を受けたとされています。
上泉信綱は、上野国の国人で上泉城主でした。信綱は上州一揆の盟主である箕輪城の長野家に仕え武田信玄と争い、永禄6年(1563)に降伏します。その後新陰流流布のため廻国したのは周知の通りです。(注2)
従って、信綱が上州の国人として健在であった頃の念流は、友松偽庵が細々と伝系を伝えるのみであったため、信綱は念流とせず、あえて中古念流としたものと思われます。偽庵自身も念流ではなく、未来記念流を名乗っていたとも言われており、念大の正統を伝える念流は、すでに滅んでいたのかもしれません。
しかしながら、念大創始の念流は、その後の日本の剣術の流れに大きな足跡を残すこととなります。
最後に、上泉信綱の流派の正式名称は、「新陰流」なのか「新影流」なのかという問題がありますが、正伝は「流儀の真體―真諦(さとり)を指すときは、「新陰流」、形象または軽く流名を呼称するときは、「新影流」と、流祖・伊勢守信綱がハッキリと区別していた」(63ページ)からであると主張しています。柳生宗厳14代の孫柳生厳長氏ゆえに敬重すべきと思われます。
(注1)『増補大改訂 武芸流派大事典』(綿谷雪・山田忠史編、東京コピイ出版部)に「柳生新陰流」の流派名は無く、「柳生新影流」は、柳生宗厳の弟子柳生松右衛門家信から福岡藩において伝承されたものとなっています。
(注2)最近は、永禄9年(1566)説が有力です。
【参考文献】
『正伝・新陰流』(柳生厳長、島津書房)
『剣豪100選』(綿谷雪、秋田書店)
『源流剣法平法史考』(森田栄、NGS)