頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第9回「危険な『美学』」(インターナショナル新書)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー9

 

危険な「美学」 (インターナショナル新書)

危険な「美学」 (インターナショナル新書)

 

 

1.歴史時代小説の時代区分について

 歴史時代小説の対象となる時代はいつからでしょうか?
 私が少年の頃は、明治以前という暗黙の了解があって、だいたい明治維新までが対象であったような気がします。かつては、NHK日曜日の大河ドラマもそのように番組を編成していたと思うのです。
 とはいえ、その大河ドラマでは、やがて自由民権運動第二次世界大戦までが時代背景として登場し、今年は東京オリンピックでした。さすがに昭和三十年代を歴史時代小説の背景とするのは、いささか時代が近すぎているように思います。むろん、私も生まれていました。今年の大河ドラマの視聴率が芳しくないのは、大河ドラマイコール歴史ドラマという暗黙の了解が、一つの要因なのではないでしょうか。
 とはいいながらも、私は「坂の上の雲」や「緋牡丹博徒」「赤い月」などは、やや昔の現代ドラマと言うより、むしろ歴史時代ドラマとして観てしまいます。昭和以降元号も平成、令和と2回改まりました。元号が3つ以前が、歴史時代小説の背景だと聞いた記憶もあります。
 例えば、月刊『歴史街道』(PHP研究所)や『歴史群像』(小学館)でも第2次世界大戦の戦争や軍人を積極的に取り上げています。
そうしてみると、昭和20年の終戦を境に、それ以前は歴史時代小説の時代区分として良いのではないでしょうか。

2.美学に潜む危険性

 上記を前提に本書を取り上げた理由は、歴史としての戦前という時代に興味があったからです。特に「散華の美学」について――。
 桜の花の散る事象を武士の潔い死と重ね合わせてとらえる「散華の美学」は、たまらない魅力を持っています。私自身も若い頃から純粋に桜の花の散るのを美しいと思い、それと重ね合わせることで、桜の花のように潔く散る「散華の美学」に惹かれていた一人です。
 しかしながら、その美学によって戦前多くの若者が自ら尊い命を犠牲にしました。いったいそれはなぜなのか。長い間疑問に思っていましたが、その疑問に答えてくれたのが本書なのです。
 著者津上英輔さんは美学者です。まさに美学の観点からその謎を解き明かしてくれます。
 本書は、「序章」と「第一部 美は幻惑する」「第二部 感性は悪を美にする」の三部構成です。序章はどちらかというと理論編です。第一部で高村光太郎の美に生きるその生き方とアニメ『風立ちぬ』に潜む危険性、第二部で結核という病の持つ美化の構造、そして「散華の美学」が取り上げられます。
 ちなみに、第一部で高村光太郎の美に生きるその生き方を取り上げていますが、かつてのように「戦争責任論」や戦後の「転向論」につながるような内容ではありません。思想やイデオロギーを一切廃して、あくまでも美学者の美学の持つ構造について書かれた著書であることを強調しておきます。右派系、左派系を問わず、読んでいただきたい本として紹介するものです。

3. 「散華の美学」とは

 さて、今回は本書の「散華の美学」について述べているところだけの紹介です。
 まず、「散華」という言葉ですが、本来は仏教用語だったようです。「華を散らす」という意で、法会の中で、花に見立てた色紙片を撒くことを意味したのです。それが「華と散る」の意で戦死を美化する比喩として使用されたわけですが、「はなとちる」の「と」という読みは、「散華」という漢文の文法的にはありえないようです。(155~156ページ)
 では、なぜそのような比喩が広まったのでしょうか。それは「『はな』の概念がこの時代まで歴史的に帯びてきた様々な含意が働いた」(156ページ)からです。
 ここで本書は、その四つの契機を紹介します。
① 少なくとも平安後期以降、「はな」といえば「桜」を指すことになります。(それ以前は、「梅」が一般的だと聞いたことがあります。)
② 江戸中期以降、桜は日本精神の象徴とされます。その例として著者は本居宣長の歌をあげます。
③ 明治期以降、桜と言えばソメイヨシノを指すことになります。ソメイヨシノは、接ぎ木によって誕生した花ですので、いはばクローンです。クローンであるソメイヨシノは、クローンゆえに一斉に咲いて一斉に散ります。その壮観さが、桜の美をさらに増幅することになります。
④ その後、桜の美を散り際の潔さに求める観念が定着します。
そして、桜の表象は、昭和9年前後から日本社会を支配し始め、爾後10年に渡って軍国ファシズムの支配イデオロギーとしての役割を果たしたと教育学者斎藤正二の主張を引用します。
 その結果、「はな」=①桜=③ソメイヨシノを前提として、その上で美の極みとしての桜=②日本精神=散り際の潔さ、という等式が得られ、これを太平洋戦争で戦う将兵を武士(=花)に見立てる比喩に重ねると、「この戦争で、同期と共に潔く死ぬことは、日本人として最も美しい行為である」という意味内容が完成し、「散華」の比喩すなわち美化が、こうした過程を経て成り立ったというのです。(156~161ページ)
こうしてみると、ソメイヨシノの一斉に咲いて一斉に散る、その有様が日本人好み(日本人らしさ)によくマッチしたのではないでしょうか。

4. 戦死と桜の美の統合

 では、なぜ「戦死」という本来であればグロテスクなものが、美しいと感じられるようになるのでしょうか。
 著者はその原因を「美化」と「美的変貌」そして「感性の統合反転作用」に求めています。この三つが交わったところに「散華」があるというのです。
 まず「美化」ですが、対象を実態以上に美しいと思い、表す用法が「美化」です。これにより「散華」が実態以上に美しく感じられるのです。なぜなら「美化」の成功は、本来美しくないものが美しいと感じているからです。
 さらに、いったん美しいと感じるとその美点だけを見て難点を覆い隠してしまいます。例えば同級生に恋する中学生を想像すれば足りるでしょう。これを「美的変貌」といいます。(162~163ページ)
 ところでビターチョコレートは、甘みと苦みがあるしかたで結合することによって陰影のある味になっています。本来マイナスであるはずの「苦み」が、あるしかたでプラスである「甘さ」と結びついて一つの味と感じられるとき、そのマイナスはプラスに転じておいしさを増強しているのです。苦いのにおいしいのではなく、苦いからおいしいのです。これを「感性の統合反転作用」といいます。(140ページ)
 戦死は悲壮の美、壮絶の美を含んでいます。「散華」は、死という悲しい結果が予想されるゆえに壮絶なので、その「美」において一斉に散る桜と統合されます。(178~179)

5. 危険な「美学」

 ところで、美と感性はマイナスの目的(特攻による戦死)のために利用されただけでそれ自体何ら悪事を働いていない。感性に悪意はないではないかという反論があるかもしれません。(189ページ)
 しかしながら、感性は忌むべきものを美しいものに反転し、いったん美しいと感じてしまうとその陰に悪が潜んでいることに気づきません。これは感性そのもの性質であり、感性は万人に共通する心の働きなのです。(189~190ページ)
 ではどうすれば感性(美)の危険な罠を防げるのでしょうか。著者は、最後に「感性の働きに目を凝らし、知性と理性による監視の目をおろそかにしてはならない。美を追究する人、感性の判断に頼る人は、時々それをやめて、それが正しいことなのか、よいことなのかを、知性と理性の検証に委ねなければならない」(190ページ)と結ぶのです。
 我々は往々にして感性のみで事の善悪を判断することがありますが、そうしてはならないという警鐘ということでしょう。
 


(追捕)
 幻冬舎グループの時代小説コンテストで大賞をいただきました。
https://www.gentosha-book.com/contest19/era/
これを機にペンネームを「平野 周(ひらの しゅう)」と改めて「歴史エッセイ」を連載させていただきます。
 新書・専門書レビューは、従来通りこちらで連載させていただきますが、併せて平野周の「歴史エッセイ」もよろしくお願いします。

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