8 柳生久通のキャリア(2)
久通は安永9年11月5日に西の丸小十人頭から西の丸目付へ異動し、11月にはそのまま本丸目付となります。一橋家の豊千代(後の徳川家斉)は、まだ後嗣と決定されていないため、西の丸に人数を置く必要がなくなったのでしょう。
一般的に目付とは、若年寄の下で旗本、御家人を監察する役職といわれています。しかしながら、単に非違曲直を正すだけでなく、日常の職務はかなり広範囲だったようです。
・規則、礼式の監察や諸士への布令
・用部屋から廻されてくる願書、伺書、建議書への意見具申
・殿中の巡視
・評定所への列席
・火事場へ出ての消防諸役の活動監視
などあらゆる政務に干渉したそうで、多いときで24人、享保以降は10人で、下僚の徒目付、小人目付を指揮しました。さらに目付は、自分の意見を直接将軍や老中に申し立てることができました。(『三田村鳶魚江戸武家事典』(稲垣史生編、青蛙房))
職務を読んだだけでは、なかなか具体的にイメージできなかったのですが、先日観たWOWOWドラマの『黒書院の六兵衛』(主演:吉川晃司、原作:浅田次郎)に、敵役として目付が登場していました。この作品を見て、目付とは、今日でいえば、総務課長、経営課長、企画課長、監査課長を併せたような役職なのかなと思いました。中間管理職の要の存在といえるかもしれません。
久通は目付在任中に、田沼意知の刃傷事件に遭遇します。意知は田沼意次の嫡男で、このとき若年寄でした。意次が老中ですから、親子で幕政に参画していたことになります。あるいは老中職の世襲を企んでいたのでしょうか。
この事件は『営中刃傷記』(『新燕石十種』第4巻、中央公論社)の「新衛佐野善左衛門参政田沼山城守を討果候一件」で詳しく知ることができます。それによると事件が起きたのは、天明4年3月24日のことです。
老中に続き、若年寄の田沼意知が、昼9ツ時頃に殿中を退出しようとしたとき、突然、新番組士佐野善左衛門正言(まさのぶ)から、「山城殿、覚えがあろう」と声を掛けられ、斬りつけられます。初太刀で意知は、肩先三寸、深さ七分ばかりの疵を負い、さらに両股、手首に傷を負い、桔梗の間廊下脇の暗がりへ逃げ込みます。
意知を見失った善左衛門を、大目付松平対馬守忠郷が走り出て取り押さえ、さらに大勢が駆けつけたことから、観念したのか善左衛門は久通に脇差を差し出します。その後、善左衛門は徒目付の監視の下、町奉行曲淵甲斐守配下の与力、同心に渡され揚座敷に移されます。(これは町奉行の管轄になったというより、揚座敷へ移すための措置と思われます。)
一方、疵を負った意知は、父意次の神田橋の邸で治療を受けますが、26日未明亡くなってしまいます。これにより、善左衛門は切腹と決まり、4月3日大目付大屋遠江守、町奉行曲淵甲斐守、目付山川下総守の立会いのもと臆することもなく切腹します。
以上が事件の概要ですが、善左衛門を取り押さえるとき、久通が善左衛門の脇差をもぎ取ったという噂が流れたそうです。柳生新陰流の達人ということからでしょうが、事実は善左衛門が渡したということのようです。
では、なぜ意知が深手を負うまで、誰も止めに入らなかったのでしょうか。同じ殿中でも、かつて吉良上野介は、軽傷で済んでいます。殿中では帯刀が許されず、脇差のみなのですから。これを泰平の世に慣れて官僚化した武士の軟弱化、とばっちりを恐れた保身と考えることもできるかもしれません。山本博文氏もその著書(注)で「18世紀後半の幕府役人の情けなさがよくわかる」(注)と嘆いておられます。
久通も突然の出来事を前に躊躇し、止めに入れなかったのでしょうか。もしそうであれば、久通の柳生新陰流もしょせんは泰平の世の剣術だったということになります。
しかしながら、襲われた人物が田沼意知であったことから、例えば赤羽根龍夫氏は「あまり早く後ろから取り押さえてしまったためにかすり傷しか負わせられなかった浅野内匠守の場合と比較して興味深い」(『徳川将軍と柳生新陰流』)とし、わざと様子を見たのではないかという視点を提起しています。
わたしは久通が、世嗣家基に近侍していたこと、その家基の不慮の死、その後の田沼意次と意知を巡る様々な流説等を考慮して、敢えて止めに入らなかったのではないかと推察します。
大目付松平忠郷も佐野善左衛門が、田沼意知を見失ったため、それ以上の猶予はならず、やむなく止めに入ったと思いたいですね。目付である久通も他の同僚とともに出て行かざるを得なくなってしまった。目付などに取り囲まれた善左衛門は、そこに久通の姿を見て、抵抗しても無駄だと観念して脇差を渡したのではないでしょうか。
あるいは、久通がこっそりと、
「山城守意知殿の疵は深いぞ」
とささやき、その意を覚った善左衛門が、久通に自ら脇差しを差し出した。と考えることも出来るかも知れません。
いずれにしろ意知は死亡し、善左衛門は志を果たしたのです。
(注)『営中刃傷記』は、書き下し文とはいえなかなか読みにくいです。興味のある方には、山本博文氏の『江戸の雑記帖』(双葉社)の「田沼意知刃傷事件」が、その『営中刃傷記』をもとに書かれていて分かりやすいので、お薦めです。