頼迅庵の歴史エッセイ

頼迅庵の歴史エッセイ9

柳生久通のキャリア(3)

 佐野善左衛門の田沼意知への刃傷事件の続きです。この事件は興味深いので、もうしばらくお付き合い願います。
 殿中での刃傷事件が3月24日、その時の疵がもとで田沼意知が亡くなったのが26日明け方のこと。となると、善左衛門にはかなり重い処分が下される、と思われがちですが、下された処分は切腹でした。切腹は武士にとって名誉とされていますので、少し意外な感じもします。(ただし、佐野家は改易で、500石は没収です。)
これは、大目付大屋遠江守昌富、町奉行曲淵甲斐守景漸等により、善左衛門の刃傷は、当人の乱心によるものとされたからでしょう。とはいえ、乱心者に切腹が可能なのでしょうか。

 善左衛門は、揚座敷の番所庭で切腹しますが、「営中刃傷記」によると、「少も臆したる体もこれ無く」潔かったと書かれています。このとき28歳でした。ただし、「木太刀切腹」といって、実際に小刀で腹を切るのではなく、首をのべたところを介錯人高木伊助(北町奉行所同心)が首をはねたようです。切腹はなかったようで、これなら、乱心者として扱い、かつ切腹ということで善左衛門の武士としての顔も立つというわけです。粋な計らいだと思います。
ちなみに、乱心として扱ったのは、田沼意知への配慮もあったと思われます。意知は殿中ということもあり脇差を抜いていません。そのため疵を負って逃げるわけですが、殿中とはいえ武士としての振舞いとしてはどうか、ということです。
双方の顔を立てるため、こうした場合は、乱心として扱うのが慣例でもあったようです。(注1)

善左衛門の辞世の歌は、
 “卯の花の 盛りもまたで 死手の旅 道しるべをと 山時鳥”
 菩提所は、浅草本願寺中神田山徳本寺です。
「御用立つべき人を、不慮なることにて切腹に及び候事と、誠に天下挙げて、佐野氏の死を惜しむ事なり」とありますので、善左衛門への同情は大きかったようです。事件の翌月には、米価が一時的に下落したことから、「世直し大明神」とあがめられ、「その葬られた浅草徳本寺が参詣人で引きもきらなかった」(注2)といわれています。
 なお切腹の際、検使の目付は、柳生久通ではなく、山川下総守貞幹でした。

 とはいえ、幕府の執政でもある若年寄が、刃傷により死亡したのですから幕府の処分は厳しいものでした。
執政(老中、若年寄)が退出する場合、中之間を通りますので、中之間詰めの留守居番、小普請奉行等はもとより、町奉行勘定奉行等も中之間に控えて見送る決まりがあったのでしょうか。事件はその中之間で起きてしまい、誰も防げなかったことから、
・目付井上図書頭、安藤郷右衛門、末吉善左衛門は差控え
・同じく目付跡部大膳、松平多宮は免職のうえ寄合入り、かつ、差控え
となります。差控えとは、現在でいう自宅謹慎です。
ちなみに、同じ目付でありながら処分が分かれたのはなぜでしょうか。「営中刃傷記」の処分申渡しを比較してみましょう。まず、井上・安藤・末吉は、事件が起きた際、「出会いそうらえ」と叫んだだけで、目前を抜き身を持って刃傷に及んだ佐野善左衛門を止めることもせず、ただおろおろしていただけのようで、「お役柄の義、別して不心懸」と判断されました。
それに対して跡部・松平は、抜き身を持って桔梗の間の方へ行く佐野善左衛門を追いかけたのですが、実際に抱き留めたのは二人より離れた松平対馬守であり、「その方ども同近く罷り候ゆえ、いかようとも取り鎮め方これあるべきのところ手間取り」とありますので、ただ佐野善左衛門を追いかけただけで、「出会いそうらえ」という声も出さず、離れていた松平対馬守が抱き留めるまで何もしなかったようで、それが「お役柄別して不心懸」と判断されたようです。
こうしてみると、声に出して知らせるというパフォーマンスは、無駄ではないようです。少なくとも自宅謹慎と免職の上自宅謹慎という懲戒処分の差は大きいでしょう。
参考までに、3人のその後は、


・井上図書頭(正富)は、天明5年9月に普請奉行
・安藤郷右衛門(雅徳)は、天明7年2月に作事奉行
・末吉善左衛門(利隆)は、天明7年3月に長崎奉行


に、それぞれご栄転となっています。(注3)

さらに、田沼意知と同役の、
若年寄酒井石見守、太田備後守、米倉丹後守は、将軍へのお目通り差控え
大目付久松筑前守、牧野大隅守は差控え
町奉行山村信濃守、勘定奉行桑原伊予守・久世丹後守、作事奉行柘植長門守、普請奉行青山但馬守、小普請奉行村上甲斐守、小普請支配中坊金蔵、新番頭飯田能登守、留守居番堀内膳たちも、中之間に居たのだから何かできることがあっただろうに(何をしていたんだ)という思し召し(たぶん将軍家治)が聞こえてきたことから、差控えの伺いを差し出しますが、即刻差控えに及ばずと言い渡されています。(これだけの者が差控えとなれば、幕府の機能がストップしてしまいますから当然ですが、跡部・松平が気の毒に思えてなりません。責任はいつの世も中間管理職に厳しいものなのでしょうか。)
 さて、御番所に居た善左衛門と同役の蜷川相模守組の新番士万年六三郎、猪飼五郎兵衛、田沢伝左衛門、白井主税の4人の処分も厳しいものでした。4人は、善左衛門を止めなかったということで、新番を免ぜられて小普請入りとなっています。組全員の連帯責任ということでしょうか。
 なお、上記の寄合、小普請とは、無役の旗本の家格を表します。3,000石以上は寄合、3,000石以下が小普請となります。

 ところで、処分を受けて寄合入りした松平多宮は、諱を恒隆といいます。「多宮」とは珍しい通称(仮名)ですので、おそらく「東百官(あずまひゃっかん)」にあるかと思って調べてみました(注4)が、「丹宮(たみや)」しか見あたりませんでした。ただ、読みからして丹宮の変形と思ってよさそうです。
 この「東百官」とは、詳細は省きますが、丹下左膳、清水一学、榊原伊織の「左膳」「一学」「伊織」が該当し、百官というくらいですから他にもたくさんありました。歴史時代小説で、通称のネーミングに困ったら、ここからチョイスするのも有りでしょう。(かつてはよく見受けられました。)

 また、表坊主たちも「不心懸の至りに候、右の段、急度申し渡し」されています。現代でいう口頭注意といったところでしょうか。
そんな中、一人だけ松平対馬守だけは、200石の加増となっています。最初に抱き留めた功を認められたものでしょう。
その後、松平対馬守(忠郷)は、大目付(役料3,000石、芙蓉之間詰め)から天明7年8月に旗奉行(役料2,000石、菊之間詰め)に異動していますが、他の関係者と比べて、少し合点のいかない人事です。何か事情があったものでしょうか。(注2)

 ちなみに柳生久通ですが、「お咎めのお沙汰及ばざる」つまりお咎めなし、以後も念入りに勤めよ、となったようです。
 久通は天明5年7月に小普請奉行(定員2名)に栄転となりますが、同役はあの村上甲斐守でした。

注1 「日本の歴史18(幕藩制の苦悶)」北島正元、中央公論社
注2  同上、「田沼意次」(藤田覚ミネルヴァ書房
注3 「大日本近世史料 柳営補任」一~三
注4 「国史大辞典」吉川弘文館
   以前ご紹介した安部式部の「式部」や白井主税の「主税」という通称は、「百官名」といいます。マンガドラえもんの「えもん」は「右衛門」のことです。通称(仮名)や諱(実名)については、いつか詳しく書きたいと思っています。