頼迅庵の歴史エッセイ

頼迅庵の歴史エッセイ7柳生久通のキャリア(1)

7 柳生久通のキャリア(1)

 それでは、柳生久通のキャリアはどうでしょうか。
宝暦12年4月18日:将軍徳川家治に拝謁し、西の丸御書院番(御番入り)
明和3年2月27日:御小納戸へ異動
  4年4月22日:御小姓へ異動し、12月16日従五位下主膳正に叙任
  (6年11月22日より西の丸近侍の者たちに剣術指南)
安永2年6月27日:西の丸御小姓へ異動
  7年4月15日:西の丸小十人頭(役料1,000石)へ昇進
  (5月26日より徳川家基の剣術の御相手)
  9年4月12日:西丸御目付に異動
  11月5日:御目付(役料1,000石)へ異動
天明元年10月8日:祖父の遺跡(家禄600石)を相続
  (2年正月23日より西の丸近侍の者たちに剣術指南)
  5年7月24日:小普請奉行(役料2,000石)へ昇進
  7年9月27日:江戸北町奉行(役料3,000石)へ昇進
  8年9月10日:勘定奉行(役料3,000石)へ異動(勝手方)
寛政元年2月2日:禁裏及び御所方の普請承り赴任(~同2年12月28日)
  11年11月16日:500石加増(家禄1,100石)
文化4年12月24日:道中奉行兼務(道中奉行は、大目付又は勘定奉行が兼務すること
となっていました。)
寛政14年2月26日:御留守居へ昇進し、在職中死亡(享年84歳)
  (注:寛政元年までは『家譜』、同11年以降は『柳営補任』に拠る。)

 

 西の丸には、将軍徳川家治の世嗣家基が住んでいました。そのため、西の丸○○とは、家基に仕える役職ということになります。西の丸は、別に「西城」ともいいます。
家基は大納言に任じられていました。聡明な人で、将軍位継承後は、親裁の意思を持っていたようです。田沼政治にも批判的で、そのためか家基近侍の者たちは、田沼意次を快く思っていなかった者が多かったといいます。
もし、家基が11代将軍となっていれば、久通はどうなっていたでしょうか。番方の雄大番頭あたりまで出世したかもしれません。残念ながら家基は、安永8年2月24日に急死してしまいます。

安永8年2月21日に家基は、新井宿のほとりに鷹狩りに出かけます。その帰り道、品川の東海寺で休憩します。(東海寺は、徳川家光が沢庵を招いて創建した臨済宗の寺院で、今でも品川にあります。)
そこで家基は、突然体調不良を訴えて、直ぐに西の丸に戻ります。そして、3日後の24日巳の刻のなかばついに亡くなってしまうのです。享年18歳。この急な死亡は、田沼意次の毒殺説や一橋治済の暗殺説等様々な憶測を呼ぶこととなります。

 このとき久通は、西の丸小十人頭でした。小十人とは、扈従人のことで、もともと小姓のことです。
小姓というと、やや幼さを残した若衆髷で、貴人の側に侍るイケメンを想像しますが、それは児小姓のイメージで、奥小姓(小姓衆)のことです。
小十人は、騎馬小姓(小姓組)に対し歩行小姓といいます。外に御書院番、御小姓組、新御番、大御番があり、小十人組を併せて番方5組といいました。いずれも、武官のポストです。

小十人組の役目は、普段は交代で殿中に詰めて警衛にあたり、将軍が外出するときは供をして警護にあたります。組子は20人で、『柳営補任』によれば当時10組有りました。うち3組が西の丸を担当したようです。
久通は当時、西の丸一番(八番組)の小十人頭で、前年5月より家基の剣術の相手をしていましたから、21日はおそらく組子を率いて家基に従っていたことでしょう。家基の急死を誰よりも悲しんだに違いありません。

余談ながら、家基の葬儀の責任者は、老中板倉佐渡守勝清でした。外に寺社奉行大目付勘定奉行などが葬儀を担当したようです。その大目付には、新庄能登守直宥の名が見えますが、このとき久通の義父であったかどうかは定かではありません。