頼迅庵の歴史エッセイ

頼迅庵の歴史エッセイ3

3 「働き方改革」と柳生久通

 

 平成31年4月1日は、新元号「令和」が発表された日です。おそらく、平成の小渕官房長官(当時)のように、菅官房長官の画像も今後折りに触れて映しだされることでしょう。
 実は、この日は「働き方改革」による改正労働基準法の施行日でもあります。今回の改正のポイントは、「労働時間法制の見直し」と「雇用形態に関わらない公正な待遇の確保」の2つです。
 このうち、労働時間法制の見直しの大きな柱は、残業時間の上限規制ということでしょう。厚労省のパンフレットによれば、残業時間の上限を法律で規制することは、70年前(1947年)に 制定された「労働基準法」において、初めての大改革となるそうです。
 今までは法律上の残業時間の上限はありませんでした。労使が合意すれば、事実上青天井だったのです。ですが、4月からは、原則として月45時間・年360時間を残業時間の上限とし、 臨時的な特別の事情がなければこれを超えることはできなくなります。

 ところで、勘定奉行に異動した柳生久通はどうしたでしょうか。
 久通は仕事に熱心に取り組みます。それはそうでしょう。折角自分を評価し抜擢してくれたにも関わらず、わずか1年で横滑りせざるを得なかったわけですから。老中松平定信の期待になんとか応えようと考えたとしても不思議ではありません。
 しかしながら、仕事熱心が高じたのか、使命感に燃えたのか、お城からの退出時間が遅いのです。山本博文氏の「武士の人事」(角川新書)によれば、当時の勤務時間は八ツ(午後2時頃)の太鼓がなれば終業だったようです。ところが、久通は七ツ半(午後5時頃)まで残業をするので、部下たちは日が暮れてから帰るということになってしまいました。トップが帰らなければ部下は帰れない、という現象は今も昔も変わらなかったようです。当時は歩いての通勤ですから、遠距離の人はさぞ難儀したことでしょう。

 ちなみに、同じく「武士の人事」では、「よしの冊子」からの引用で、八ツになると「みな帰りたいと思い、奉行が退出するのを待つだけで、さして仕事をするわけではない」(162ページ)という状況だったようです。この辺りも、今も似たような組織があるかも分かりませんね。久通も含めて、当時の勘定所の人たちが、現在の「働き方改革」を知ったら何と思うでしょうか。
 さて、その柳生ですが、結局、文化14年2月26日に留守居に異動するまで、結局29年間も勘定奉行の職にありました。むろん、歴代最長記録です。部下たちの難渋いかばかりだったでしょうか。

 そこのワーカホリックのあなた、この話を読んで自分を慰めないでくださいね。これは今から250年以上も前のことなのですから。そして、残業時間の上限規制はもう始まっているのですから。

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