頼迅庵の歴史エッセイ

頼迅庵の歴史エッセイ4

4 江戸時代の三大改革と江戸町奉行

 享保の改革寛政の改革天保の改革を江戸時代(又は近世)の三大改革といいます。この三つの時代と改革の推進者、そして町奉行を見てみましょう。

 享保の改革享保元年(1716)~延享二年(1745))
 推進者:八代将軍徳川吉宗
 町奉行(南)大岡越前守忠相 ⇒ 約十九年後に寺社奉行へ栄転
      (北)中山出雲守時春 → 諏訪美濃守頼篤
 寛政の改革天明七年(1787)~寛政五年(1793))
 推進者:老中松平越中守定信
 町奉行(北)柳生主膳正久通 ⇒ 一年で勘定奉行へ左遷
      (南)池田筑後守長恵 ← (山村信濃守良旺)
 天保の改革天保十二年(1841)~天保十四年(1843))
 推進者:水野越前守忠邦
 町奉行(南)矢部駿河守定謙 ⇒ 八か月で更
      (北)遠山左衛門尉景元

 上段が、推進者より改革と同時に任命された町奉行で、いわば人材登用(抜擢)された人物です。(このうち遠山景元は、天保十一年に水野忠邦が任命したと思われますが、天保の改革の開始が天保十二年ですので、除外します。)
 天保の改革矢部定謙は、西丸留守居からの異動ですが、あろうことか遠山景元とともに水野の改革に逆らっています。剛直な性格であったらしく、そのためわずか八か月で鳥居忠燿と交代しています。そして、天保の改革自体わずか二年程で終わってしまいます。

 さて、上記三つの改革で、大岡忠相のみ十九年の長きに渡って町奉行を務めているところを見ると、改革の推進者が抜擢した町奉行の活躍が、その後の改革の成否を左右したといっても良いのではないでしょうか。
 そう考えると、久通の異動は残念な気もします。勘定奉行を二十九年に渡って勤め上げたということは、決して無能ではなかったと思われるからです。
もう少し、辛抱して使ってもらえていれば、久通としては真価を発揮できたかもしれませんね。

 余談ですが、町奉行は、目付から小普請・作事・普請奉行(「下三奉行」ともいいます)等を経て任命されるコースと目付の経験はないものの地方の奉行を経て任命されるコースと大別して二つあったようです。ですが、遠山景元に下三奉行の経験は有りますが、目付の経験はありません。また、矢部定謙は、火付盗賊改から堺奉行に異動し、さらに西丸留守居から小普請組支配を経て町奉行に任命されています。コースに変更があったのか、それとも二人が異例だったのか……。

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