頼迅庵の歴史エッセイ

頼迅庵の歴史エッセイ2

2 (江戸)町奉行勘定奉行、そして柳生久通

 

 東大名誉教授藤田覚氏の「勘定奉行の江戸時代」(ちくま新書)によれば、町奉行所は「御番所」といわれ、「長である町奉行は『御頭』などと呼ばれていた」(12ページ)といいます。続けて氏は同著で、
勘定奉行は、旗本が就任するポストとして実質的には最上位にある。しかし、勘定奉行を経て町奉行に就任する者は多いが、その逆、すなわち町奉行を経て勘定奉行に就任する者はいない(なお、町奉行勘定奉行を兼任した例はあるが、その逆はない)。つまり、幕府の役職上の格式としては、町奉行勘定奉行より上位だった。」(13ページ)
と、断言しておられます。

 確かに勘定奉行から町奉行へ異動(わざと「異動」という表現を使います。)する者は多いのですが、町奉行から勘定奉行へ異動した者がいないかというとそうではないのです。原則があれば例外があるというところでしょうか。柳生久通がまさにそうなのです。

 久通は、天明7年9月27日に北町奉行に異動となりました。43歳という働き盛りです。ところが、翌天明8年9月10日に勘定奉行に異動となるのです。わずか1年の在任期間でした。このことを藤田氏が知らないはずはないので、おそらく例外中の例外ということになるのだろうと思われます。
 久通は小普請奉行から町奉行に異動しているのですが、これは2階級特進みたいな人事、つまり抜擢人事なので、それ故1年で勘定奉行に再異動させたのかも知れません。バランスを取るための人事というところでしょうか。

 町奉行から勘定奉行へのダイレクトな異動は、私が確認できた限りでは久通だけですが、間に別な役職を噛ませて勘定奉行に異動となった人物に曲淵甲斐守景漸という人がいます。
 景漸は天明7年6月1日に北町奉行から西の丸留守居に異動し、翌天明8年4月6日に小普請組支配に再異動し、久通の後を追うように同年11月24日に勘定奉行に異動しています。ちなみに留守居又は西の丸留守居は、俗に言う上がりポストで、閑職と認識されていたようです。
 景漸は閑職からやりがいのあるポストに見事に復活したわけですが、その理由を東大史料編纂所教授の山本博文氏は、著書「武士の時代」(角川新書)で「ほかに能力のある役人が少なかったのか」あるいは「もと町奉行の経験は貴重だった」(115ページ)のだろうかと述べています。景漸は能吏だったようです。

 江戸時代の役職の転変を今日でいうキャリア形成の観点から再構成すると面白いかもしれませんね。私は現在、そんな小説を構想中です。(試しに今度の雑誌『大衆文芸』に発表の予定です。)