雨宮由希夫

書評『斗星、北天にあり』

書名『斗星、北天にあり』
著者 鳴神響一 
発売 徳間書店
発行年月日  2018年1Ⅰ月30日
定価  ¥1800E 

 

斗星、北天にあり

斗星、北天にあり

 


 2014年に『私が愛したサムライの娘』で第6回角川春樹小説賞、第3回野村胡堂文学賞をダブル受賞してデビューした鳴(なる)神(かみ)響(きょう)一(いち)。時代小説のシリーズとして『鬼船の城塞』、『影の火犯科帳』、『おいらん若君 徳川竜之進』、『多田文治郎推理帖』、現代ミステリーとして、『脳科学捜査官 真田真希』、『謎ニモマケズ』がある。いまや、時代小説と現代ミステリーの双方にシリーズを持つ鳴神は今や目が離せない。その鳴神が挑んだ、初めての戦国もの歴史小説安東愛季(あんどうちかすえ)(1539~1587)を主人公とした『斗星、北天にあり』である。

 安東氏は北奥中世史に欠くことのできない一族であり、前九年の役で敗れた安倍(あべ)貞任(さだとう)の後裔を自称した安東氏には多くの謎がある。その姓は安倍,安藤、安東、秋田と改姓されたという。愛季(ちかすえ)の祖先は鎌倉期には北条得宗家の被官として「蝦夷管領(えぞかんれい)」と呼ばれ、津軽半島の十三湊(とさみなと)で北方文化を花開かせた。安東氏は「俘囚の長」たる安倍氏の血に誇りを持ち、蝦夷(えみし)と呼ばれた北方の人間集団の支配者・奥州藤原氏の頃に築かれた蝦夷(えみし)の王国の伝統の上に、戦国期において、愛季は今の秋田県の大部分を支配、奥羽戦国の群雄の一人として伸し上がってきた。が、一般にはなじみが薄い戦国武将安東愛季を鬼才鳴神響一がいかに描くか興味を持って紐解いた。
 愛季(ちかすえ)は天文8年(1539)、出羽国檜山城主、安東舜季(きよすえ)の子として生まれ、15歳で父舜季が死没したため、安東一族の惣領家系である檜山(ひやま)安東家(あんどうけ)の家督を相続している。

 物語は檜山安東家八代当主愛季が、能代湊(のしろみなと)(米代川河口)に佇み、「東北最大の湊を造り、民のためにこの地を富ます!」と滾る思いを胸に「載舟覆舟」の国造りを始めるところからスタートする。
 愛季は祖先以来の蝦夷地から若狭にかけての日本海交易を継承すべく、北海航路を開拓。蝦夷能代、土崎、直江津、七尾、敦賀、小浜を結ぶ交易拠点造りに成功する。秋田湊(土崎湊)は江戸時代、久保田藩佐竹氏20万石の玄関口として賑わったが、その基を開いたのは安東愛季であったのだ。
 檜山安東(ひやまあんどう)と湊安東(みなとあんどう)に割れていた安東氏を統一することと並行して、愛季が目論んだのは陸奥への進出であった。かくして北奥の主導権をめぐって、馬飼いの南部一族と水軍の安東一族が南部(なんぶ)晴政(はるまさ) (1517~1582)の領する鹿角(かづの)(当時は出羽国ではなく、陸奥国に属す)で激突する。南部氏は頼(より)朝(とも)の奥州征伐に従って功を立て、東北の雄となった名族で、時の当主は南部氏最大の勢力を築いた南部晴政で、後の盛岡藩の始祖である。永禄10年(1567)25歳の愛季は鹿角へ侵出、南部一族の一戸義実の居城・長牛城を攻略するが、翌年、南部一族の九戸(くのへ)政実(まさざね)に長牛城を攻められ、奪回される。
 鹿角、比内で境を接する両氏の対立は秀吉の天下統一まで続く。なお、高橋克彦歴史小説の巨編『天を衝く』は主人公の九戸政実が秀吉の「奥州仕置」に異議を唱え、豊臣の大軍と合戦する壮絶な物語である。併せ読みたい。
 愛季は天正元年(1573)から織田信長に、本能寺の変以後は秀吉に、毎年の貢物を贈ることで誼を通じようとしている。局地戦での勝利は当然ながら、中央権力の支持と承認をいかに勝ち取るかが奥羽の群雄割拠を生き残るために求められる時代へと移行していたのである。

 愛季をめぐる登場人物で注目すべきは蠣崎(かきざき)季広(すえひろ)と大浦(おおうら)為信(ためのぶ)である。
 檜山安東氏は 津軽、出羽を根拠に渡島、日本海に大きな力を持ち、蝦夷(えぞ)との北方交易を管理してきた。が、愛季の時代、渡島支配の宗主権は檜山安東家にあるものの、事実上の支配権は蠣崎氏の手に移っていた。「安東家西蝦夷奉行」の蠣崎季広は「高齢ながら覇気あり、いつか独立したいという野心を感じさせる男」として活写される。津軽安東氏の傘下にあった蠣崎氏は季広の三男慶広が愛季の死後に松前(まつまえ)と姓を変えて独立を果たし、この家は北海道唯一の藩・松前藩として幕末まで続く。
 大浦(おおうら)為(ため)信(のぶ)(のちの津軽為信)は奥羽戦国の梟雄ともいうべき人物である。南部氏の家臣であった岩木山麓の大浦城主の為信は元亀2年(1571)、津軽における南部氏の拠点・石川城(現・弘前市)を急襲、主家である南部氏に反旗を翻し、天正6年(1578) には浪岡御所を襲撃。ついには南部氏を津軽から追放している。後年、小田原攻めの際に、南部氏より早く秀吉のもとに参陣し、独立承認をもぎ取って津軽姓を名乗り、のちに津軽弘前藩の始祖となっている。


 実在の人物である蠣崎季広や津軽為信以上に、物語を精彩あるものとして息吹を吹き込んでいるのは、汀(なぎさ)、佐枝(さえ)、小雪(こゆき)ら愛季の正妻たち3人の女人である。とりわけ、汀の母を「東韃人」とする人物造形は秀逸で、複雑な家族構成、一族内の臣従関係がやがて両安東家の抗争、愛季の死へとつながっていく物語の展開は作家の天賦の構想力のなせる技と脱帽するほかない。
 天正7年(1579) 湊安東家の茂季(しげすえ)(愛季の実弟)死。愛季は茂季の嫡子、16歳の通季を当主に据え、嫡男・業季を土崎湊城に入れて後見役とした。檜山と湊の安東両家は同族との対立を克服して、ここに完全に統一されたに見えたが、いささか強引な合併策は火種を残し燻り続けることとなる。
 出羽北部の沿岸部をほぼ統一し、羽後(出羽北半)最大の大名となり安東氏の最盛期を築き上げた愛季は、「斗星の北天に在るにさも似たり」と都の公家衆に噂される。
 すでに秀吉の天下が決した時代でもあった。しかし、愛季は「出羽には出羽の天下あり」と宣言し、「載舟覆舟」の旗の下、出羽一国の民を富ませてゆきたいとする愛季の初志は変わらない。沿岸部平定を果たした愛季は休むことなく内陸部に進出し、雄物川流域の支配権を巡り、角館城主戸沢盛安(もりやす)と戦い、天正15(1587)年9月1日、仙北(現在の秋田県南部)淀川の陣中で卒去。享年49。
 翌10月 実季12歳が当主となる。やがて、実季は秋田城介にちなみ秋田氏を名乗る。秋田はもと飽田(あくた)といい、遠く奈良時代蝦夷鎮圧のために秋田城が築かれた。
 安倍の血に誇りを持つ実季はその故事に因んだのであろう。

 しかし、歴史は非情である。家康は関ヶ原の戦いの戦後処理として、徳川方に加担しなかった常陸国の佐竹(さたけ)義宣(よしのぶ)を出羽国久保田(秋田)に転封。その玉突き国替えで秋田氏は常陸国宍戸(ししど)5万石に転封され、さらにのちには陸奥国三春(みはる)5万石に移され、幕末を迎えている。

 安東一族の力の源泉は能代湊と土崎湊の舟運による海の富であった。海を離れての安東氏の生存はない。「鎌倉時代以来、海とともに生きてきた安東氏の歴史もここに終わりを告げる」と怜悧な作家は淡々と結んでいる。
 信長、秀吉、家康の「中央」戦国史観から見れば、「辺境」たる奥羽の戦国の熾烈な戦いなどとるに足らないものと無視もできよう。が、「辺境」の歴史を知ってこそ「中央」の何たるかが見え、本当の意味での日本史が語られるというものである。
 国造りに心血を注ぎ、秋田の礎を築いた知る人ぞ知る英雄である安東愛季の一代記。北斗の星の如く輝く愛季の生き様に心が奮える歴史小説の誕生である。
            (平成30年12月25日 雨宮由希夫 記)