雨宮由希夫

書評『騎虎の将  太田道灌 (上・下)』

書名『騎虎の将  太田道灌 (上・下)』

著者 幡大介

発売 徳間書店

発行年月日  上・下とも2018年1月31日

定価 上・下とも¥2000E

 

騎虎の将 太田道灌 上 (文芸書)

騎虎の将 太田道灌 上 (文芸書)

 

 

 “山吹の里”のエピソードで知られる文武兼備の名将・太田道灌(おおたどうかん)(1432~1486)の生涯を描いた歴史小説である。上下2巻17章の大作で、ウエブサイト“歴史行路”に2016年1月から2017年7月まで連載された。

 上巻は関東(かんとう)管領(かんれい)上杉氏を支える扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰で、相模(さがみの)国(こく)守護代を努める太田家に生まれた道灌が、永(えい)享(きょう)の乱(1438、関東公方足利持(あしかがもち)氏(うじ)が室町幕府に対して起こした反乱)、結城(ゆうき)合戦(1440)、嘉(か)吉(きつ)の乱(1441、将軍義教(よしのり)が赤松(あかまつ)満佑(まんゆう)に弑逆された事件)と続く混乱の時代に、少年期を送り、享徳の乱(1454、関東公方足利(あしかが)成(しげ)氏(うじ)が関東管領上杉(うえすぎ)憲(のり)忠(ただ)を騙し討ちにした事件)、分倍河原の大合戦、成氏の鎌倉から古河(こが)への動座を経て、江戸城築城にとりかかるまでを。下巻は長尾景(ながおかげ)春(はる)の乱(1476)を中心に、讒言にまどわされた主君の扇谷上杉(うえすぎ)定正(さだまさ)により、相模糟屋(かすや)の居館で謀殺されるまでを描いている。

 道灌とはどのような武将であったのかを問う前に、道灌が生きた時代とはいかなる時代であったのかを押さえておく必要があろう。

室町幕府守護大名、公卿、寺社の力のバランス上にかろうじて存在していた幕府で、「天皇になろうとした将軍」・3代義(よし)満(みつ)全盛期においてさえ、九州と関東は幕府の完全な支配下にはなかった。一方また、将軍独裁の専制政治を義満以上にすすめようとしたのが「万人恐怖」といわれた恐怖政治をしいたのが、『籤引き将軍』6代義教であった。

そもそも、室町幕府武家の本拠地とされる鎌倉に幕府を開けず、東国統治を担う出先機関として関東公方府を置いた。関東公方府の頂点には、尊氏の次男基氏の流れが「関東公方」としてその地位を継承した。関東管領・上杉氏はその補佐役として、実質的な政務の運営と統括を担ったが、府の長たる関東公方とその政務執行機関である関東管領とは創設以来、反目した。関東管領とは「京都様」(=「室町幕府の将軍」)が関東公方につけた目付であったからである。

歴代の関東公方は一種独立国の機運を高め、ことあるごとに京都の幕府に楯突き、もめごとが起こる度に、関東管領たる上杉氏は関東公方たる足利氏を宥めねばならなかった。「柳営がとるべき道は東国を一つにさせぬこと」(上巻277頁)とあるように、京都の幕府は関東公方関東管領がつねに内部抗争していることを良しとした。

歴史小説の優劣は、その時代と人をいかに描くかにある。幡大介の歴史小説が面白いのは室町時代とはいかなる時代であったかを、「半済令(はんぜいれい)」や「守護大名」を通じて教えてくれることである。室町時代の大名は江戸時代の大名のような領主ではなく、警察官に過ぎず、例えば、甲斐国守護職は〈山梨県警の県警本部長、兼日本陸軍甲府師団長〉である(上巻231頁)と。

上杉氏はもともと丹波(たんばの)国(こく)上杉荘の下級公家にすぎなかったが、関東公方を輔弼する役割を担う関東管領となるに及び、上杉一族は山内(やまのうち)、扇谷、犬懸(いぬかけ)、宅間の四流に分かれて栄えた。太田氏ももともとは丹波国地侍であったが、上杉家が丹波守護となった縁で上杉家の被官となり、上杉氏に従って東国入りし、上杉家の家宰となった。

上杉氏も太田氏もその出自は「頼朝以来」を誇る東国土着の武士とは異なるよそ者であった。また、「管領と家宰」の関係も「公方と管領」同様、確執をはらむ宿命にあった。このような時代に扇谷上杉家の家宰となったのが、太田道灌であった。

作家は、室町後半期の政治支配の仕組み、さらには足利将軍、関東公方関東管領の微妙な関係が生み出す複雑極まる展開を独特の筆致で整合的に説明しつつ、ストーリーを展開させる。

応仁の乱(1467)の原因は有力守護大名の斯波・畠山両氏の家督争いに加え、将軍継嗣問題が拍車をかけたことにあり、さらにはその戦乱が全国へ飛び火して、勝者も敗者も定めがたい卍巴の消耗戦となったといわれる。

関東戦国史を知るためには、禅(ぜん)秀(しゅう)の乱(1416 室町幕府の東国支配の本拠鎌倉府の中枢の分裂)にはじまり、永享の乱(1438)、結城合戦(1441)、享(きょう)徳(とく)の乱(1454~1482)へと続く一連の争乱を理解する必要がある。関東の錯乱が室町幕府の権力争いを誘発して応仁の乱に至ったともいえる。現象だけを眺めれば享徳の乱は地方の一騒乱にすぎないかも知れないが、見方によっては時代を画した事件だったともいえるのである。

応仁の乱の勃発により、作家は「関東の武士たちに新しい”戦いの名分”が与えられた。戦いの目的と勝利条件が変わったのだ」(下巻191頁)と記している。

享徳の乱以来、関東が京都に先立ち、実力だけを拠り所とするいわゆる戦国時代に突入していた。このとき、道灌は時代の転換点、時代の節目をどこまで感じ取っていたであろうか。

長尾景春の乱(1476)の発端は家宰職の争奪であっても、首謀者・長尾景春関東管領上杉氏の守護領国体制を打破して、戦国大名への指向性を見せた人物であるとする見方もある。景春と道灌は「上杉氏の家宰」という同じ立場にあり、道灌の方が一回りほど年長、以前から親密な友人で、景春は道灌を兄と慕いながら、二人は敵味方に分かれて戦う。なお加えるに、本書では道灌と景春とは姻戚関係にあったと造形されている。

 景春以上に道灌の「戦国大名」としての可能性を考える上で重要な人物は北条早雲(? ~1519)である。道灌の同時代人たる早雲の出自については「伊勢の素浪人にすぎない」などの俗説があったが、本書では、将軍足利義(よし)政(まさ)の申(もうし)次(つぎ)・伊勢(いせの)盛(もり)定(さだ)の子盛時(もりとき)であるとする。道灌と早雲は、駿河(するが)今川氏の家督相続騒動で出会うのは史実に即しているが、本書では、のちに戦国大名の先駆になる早雲が、一途に主家大事とつとめる道灌に「騎虎の勢い」を説くシーンがあり、本書の書名の由来となっている。

時代は着実に変わりつつある。関東公方関東管領もその権威を失い、もはや彼らが関東の主である時代は終わっており、関東における室町体制の秩序は崩壊し、実力がものをいう時代、下剋上のまかり通る乱世が目の前にあった。実力、声望ともに、道灌に比肩するものは関八州にはいない。しかし、道灌の死によって、道灌治下の江戸の繁昌はわずか30年でおわる。

騎虎の勢いで駆けめぐる道灌の前に立ちはだかる壁とはなんであったのか。

時代を変え、新たな天下を築いていくという断固たる意志は旧体制の護持という保守性で薄められたが、道灌に野心がなかったと言えば、嘘になろう。

北条氏を除いて、関東には、武田氏、上杉氏、伊達氏のような戦国大名がうまれなかったわけも納得できた。戦国初期の関東を知る上での優れた歴史小説の誕生である。

かつ、今年度上半期を飾る最大の労作でもある。

(平成30年5月29日  雨宮由希夫 記)