雨宮由希夫

書評『かちがらす 幕末を読み切った男』

書 名   『かちがらす  幕末を読みきった男』      1808
著 者   植松三十里
発行所   小学館
発行年月日 2018年2月27日
定 価    ¥1750E

 

かちがらす: 幕末を読みきった男

かちがらす: 幕末を読みきった男

 

 

 明治維新から150年という節目の年に当たる今年(2018)を期して、歴史小説の世界では、ある特定の藩の立場から見た幕末維新を描いた名作が発表されている。伊東潤の『西郷の首』は加賀藩から、奥山景布子の『葵の残葉』は尾張藩からであるが、本書は佐賀藩を正面切って描いたものである。

 作家にはすでに、一冊のオランダ語の書物を頼りに反射炉の建造に挑んだ佐賀藩の男たちの物語『黒鉄の志士たち』(2013)があるが、幕末・開明佐賀藩主・鍋島(なべしま)閑叟(かんそう)を主人公として、もう一度、幕末の佐賀を描こうと思ったという。
 35万7千石の大藩肥前佐賀藩は幕末の多くの藩で見られたような藩を二分した熾烈な派閥の対立もなく、また、「薩長土肥」といわれるが、薩摩長州のような積極的な動きを示さなかった。木戸孝允が「佐賀、ハジメヨリ天下ノタメニ功ナシ。天下ニ害スルコト甚ダ多シ」(『木戸日記』)と斬り捨てたごとく、鳥羽伏見の戦いで天下の大勢が決した後にアームストロング砲を担いで登場した佐賀藩の貢献度は当時においては低いとみられていた。

 後世の者から見れば、佐賀藩は日本史上、屈指の激動の時代である幕末において、きわめて特異な動きを示していることがよくわかるが、幕末の風雲の最中にあって、鍋島閑叟(かんそう)がいかに現況を読み切り、いかに生き抜いたかを、作家は淡々と描いている。

 天保元年(1830)17歳で藩主となり、はじめて領国佐賀へ向かう時、東海道品川の本陣で足止めを喰らうという挿話はあまりにも有名だが、本書でも藩財政逼迫のために味わう恥辱的な、ある意味で閑叟の生涯を決めた事件を物語の初めに置いている。藩主としてのスタートは悲惨であったのだ。この恥辱をはらうべく、若くして藩政改革に取り組み、やがて他藩に先駆けて西洋化を進める姿勢がまず描かれる。
 閑叟の最初の正妻・お盛は11代将軍家斉の娘であったが、外様大名の夫を助けるお盛との夫婦の絆がほほえましい。

 また、閑叟を取り巻く人間関係の描写がすぐれる。
 島津(しまづ)斉(なり)彬(あきら)は母方の従兄(いとこ)で、互いの心が通じ合っていた。井伊(いい)直(なお)弼(すけ)は父方の再従弟(はとこ)で、海外に目を開き、閑叟と意見を同じくする。伊豆(いず)韮山(にらやま)に反射炉を築いて大砲を鋳造する江川(えがわ)太郎(たろう)左(ざ)衛門(えもん)坦(たん)庵(あん)も同志の一人だが、皆、短い生涯を遂げ閑叟の前から去ってゆく。同志とよべる漢(おとこ)を次々と失う。ここに閑叟の先駆者としての悲劇の一因がある。
 命を賭けて田中儀右衛門らを佐賀に招聘する佐野(さの)常民(つねたみ)、義祭同盟という勤皇の結社を旗揚げし尊王攘夷を叫び、藩の方針に異を唱える枝(えだ)吉(よし)神(しん)陽(よう)。神陽の下に集まる後に維新政府の大官となる江藤(えとう)新平(しんぺい)、大隈(おおくま)重信(しげのぶ)。そうした彼らの才を愛する閑叟の懐の奥深さ、主従の絆がこれまた読ませる。

 幕末の名君、いわゆる賢侯とよばれる人々は数多いが、水戸(みと)斉(なり)昭(あきら)、山(やまの)内容堂(うちようどう)、松平(まつだいら)春獄(しゅんごく)などに比べれば、閑叟はその世界観、見識、藩士への統率力が一頭、地を抜いていたといえる。
 閑叟をして幕末の英傑たらしめた要因は、佐賀藩が幕命による長崎警護の任にあり、いち早く海外の情報を入手でき得る場にあったことである。長崎警備と言えば、公然と大砲を作ることができ、秘密裏に対外貿易も成し得た。尊攘論が一世を風靡していたあの時期に、「真の攘夷とは外国の侵略を防ぎ、日本を守ることだ」(197頁)と確信し、科学技術の導入こそが新時代を先導するものと見抜いていた閑叟は、長崎警備にことよせ、新鋭の洋式兵器を蓄え、佐賀藩の軍事力を日本随一のそれに育て上げた。
 動乱に際して勤王・佐幕のいずれにも与せず、殖産興業策を大いにやるばかりの閑叟を幕府も諸藩も理解できず、「二股膏薬」「風見鶏」「肥後の妖怪」などと揶揄、警戒した。また、このことに閑叟自身は甘んじた。

 慶応3年(1867)7月27日、大坂城で徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)が閑叟に「本当に佐賀藩が中立を守るなら、政権を朝廷にお返ししてもよい」と大政奉還の意思を語る場面(287頁)がある。淡々と記述されたこの物語において、唯一、作家の造形力が史実の枠を超え波打つシーンであるといってよい。『徳川慶喜公伝(3)』(東洋文庫)によると、「閑叟は一度だけ京都に上り世間をおどろかせた」とあり、慶喜はそれを元治元年(1864)10月13日のこととしている。なぜ慶喜が慶応3年(1867)7月の閑叟との会見を無視したのか。
 閑叟が徳川幕府の運命について、どのような見解を持っていたのかはわからないが、終始、政局に深入りする気持ちはなかったのである。

 作家は描く、「それ(=権力争い)よりも、ひとえに日本の海を守りたかった。わが家中が全滅すれば、日本という国も消え失せるだろう。とにかく技術を磨き、力いっぱい日本の海を守るしかない」(229頁)と。
 作家が「かちがらす」を本書の表題としたには、断じて「風見鶏」などではないとの意味がこめられていよう。
 日和見にあらず、あの時代にあって、迷うことなく、方針をしっかり定めて舵取り、“先の日本のために佐賀がある”とした鍋島閑叟はまさしく「幕末を読みきった男」であった。

 維新150年の今年、NHK大河ドラマ西郷どん」をはじめとし、さまざまな維新回顧のキャンペーンがはられているが、お祭り気分ではなく、地に足の着いた「真の明治維新」を探るためにも、本書は読まれてほしい一冊である。

             (平成30年4月29日  雨宮由希夫 記)