書 名 『親鸞』
著 者 三田誠広
発 売 作品社
発行年月日 2016年6月15日
そもそも親鸞(1173~1262)は自らの私生活について全く語ることをしなかったため、親鸞の家系と出自、親鸞の妻など肝要なことごとをはじめとし、その生涯については謎、不明な部分が多い。
親鸞は皇太后大進日野有範を父とするが、親鸞の母について、著者は源頼朝の妹の貴光女で、つまり、親鸞は頼朝の甥にあたるという説に拠っている。これは甚だしく刺激的なことであるが、作家は「特に根拠があるわけではないが、そのように設定すれば、話がおもしろくなる」としている。
親鸞の生きた平安末期は貴族の支配が終わり、武士の時代の幕開けとなった時代である。治承5年(1181)、親鸞は9歳で出家している。出家は貴族社会での栄達を放棄することである。親鸞自身の意志ではなかったと察せられるが、源氏ゆかりの出自が出家を余儀なくさせたと作家は観ている。
前年には頼朝が伊豆で挙兵。時あたかも諸国の源氏が打倒平家の旗挙げに踏み切った時期に、親鸞自身も新たな門出に踏み切ったことになる。文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いは親鸞13歳の時である。
平氏の滅亡を少年親鸞は比叡山で知ったことになるが、史上の親鸞は源平の戦乱については何も語っていない。ここは抑えどころである。
保元元年(1156)の保元の乱で、天皇方の義朝は敵方の上皇方(崇徳上皇)についた父・為義を殺すよう、後白河天皇に命じられ、義朝は自らの手で為義を殺している。
本作の設定通り、まさに親鸞の母が頼朝の妹であるとすれば、親鸞は義朝の孫に当たるわけであり、親鸞の血の中に、東国武士の総帥たる伯父頼朝および父殺しをした祖父義朝の血と同じ血が自分の体内にも流れていることになり、これにより、「親鸞の胸中に絶えず重い空気をもたらしている五逆の罪(父殺し)という概念の切実さが、より強くなる」のは当然のことで、罪深い悪人こそ救われるという悪人正機説を唱える親鸞が「五逆を犯した者も救われるというが、わが祖父義朝もすでに救われているのか」と叫ぶ姿は源平興亡史に重なるわけであり、読者にとってまさに衝撃的以外の何物でもないであろう。
親鸞を宗祖とする浄土真宗は関東の地で門流として出発し、現在、俗に「真宗十派」といわれるが、「親鸞の妻」についても、親鸞は生涯に何人の妻を娶ったかで、恵信尼を唯一の妻とする説、恵信尼の他に玉(たま)日(ひ)姫(ひめ)という妻がいたとする説、はたまた三人説があり、浄土真宗の各派によって見解が分かれるという。
玉日姫は九条兼実(1149~1207)の末娘である。親鸞研究の第一次史料とされる『恵信尼文書』や親鸞の曽孫・覚如の『御伝鈔(親鸞伝絵)』には玉日姫のことはいっさい記載されていないため、いまだに多くの親鸞研究者が親鸞と玉日姫の結婚を伝説上のこととし否定しているが、公平な目で諸宗派を俯瞰したうえで、作家は、29歳の正月、比叡山を降り法然の門に入った親鸞が、その年の秋、玉日姫との結婚に踏み切るシーンを活写しており、最初の妻・玉日姫との結婚を親鸞の人生において最も重要な出来事として捉えている。
建永2年(1207)の建永の法難は法然門下の密通事件に端を発する念仏弾圧で、親鸞は僧籍剥奪の上、越後国に流されている。35歳の親鸞と75歳の法然が処罰された理由と背景についても、はなはだ興味ぶかいが、本作では、親鸞はじめての子・善鸞をかかえる玉日姫は都から遠い流罪地の越後についていかず、侍女の恵信尼が親鸞に同行して事実上の妻となったと物語る。
親鸞の子は4男3女と伝わり、うち6人の子女が恵信尼との間に設けられた。
長男の善鸞のみが玉日姫を母とする。母玉日姫が親鸞の流罪中に死去したとしたこともあり、善鸞は親鸞を恨んでいる。のちに善鸞は父親鸞から義絶されているが、「父と子」の対立は善鸞出生の時点で芽生えていたと作家はみなしている。のっぴきならぬ宿業、宿縁は物語の全体をリードすることなる。読者は善鸞の存在を陰に陽に意識しながら読み進むことになる。
流人の親鸞は「愚禿親鸞」と自称した。越後国流刑5年の後、赦免されるも、京都へは帰らず、関東へ向かい、親鸞は関東にあって、妻子を持ちながら、「非僧非俗」の生活を送った。関東が選ばれた理由については諸説あり。定説を見ないが、近年では、信濃善光寺の勧進念仏聖一行に加わっての行動とする見解が有力で、本作もこの説を採っている。
親鸞を取り巻く人物造形の面白さもきわだつ。
親鸞49歳時の承久3年(1221)の承久の乱を引き起こした後鳥羽院について、
「ただわがままに育っただけの、子供っぽい暴君で、気位の高い怪物のような存在」と造形している。
親鸞が慈円のもとで得度したとされることがどこまで事実か歴史学ではまだ結論が出ていないらしい。史書・史論書として名高い『愚管抄』の著者として知られる慈円は摂関家の出で、関白九条兼実の実弟で、四度も天台座主を歴任、後鳥羽院の護持僧にもなった天台宗の高僧だが、『愚管抄』は暴君後鳥羽院の討幕計画を察知した慈円が上皇を諫める目的で著したとする。目から鱗の解釈である。
親鸞の師・法然の唱えた専修念仏の教えは庶民のみならず多くの公卿や学僧にも帰依するものが多かった。慈円の兄、九条兼実もその一人であるが、作家は九条兼実を「実直な人物であったからこそ、公卿としての責務の重さに心がふさぎ、自責の念に駆られたこともあったろう。だからこそ、兼実は法然の人柄にすがった」としている。
歴史解釈では、「源実朝は皇子を後継者にしたいとの意向を持っていた」とする見解が注目される。
とかく宗教者の伝記は宗門の護教派の手になる礼賛調のものが多いが、本作は文学者の公正な目で物語られている。
「親鸞の思想形成の過程を丹念にたどることが、親鸞の人物像を描くことにつながる。わたしが書こうとしているのは、偉人の事績をたどる年代記ではなく、一人の人間が青春時代に体験する目の眩むような思想のドラマなのだ」とも、また、「五逆の罪というのが一つのキーワードになっているので、『父と子』というテーマを外すことはできなかった。善鸞の設定には異論もあるだろうが、これは小説なのだと受け止めていただきたい」とも、「あとがき」で述べているが、これら作家のこの著作に懸ける思いは読者に十二分に伝わってくる。
親鸞の肉食妻帯(にくじきさいたい)といわれる結婚がいかにしてなされたのかなど、いささか興味本位の先入観で、本書をひもとき始めたが、「愛欲の広海(こうかい)に沈没(ちんもつ)」しつつ、親鸞は永遠の生命を得たことを知った。
動乱の時代相を活写しつつも、数奇な生涯を送った宗教者親鸞の真の姿に迫るべく記述された本作はすでに『空海』や『日蓮』という宗教小説をものした作家三田誠広による快作であり意欲作である。
(平成28年9月22日 雨宮由希夫 記)