雨宮由希夫

書評『峠越え』 伊東潤

書名『峠越え』
著者  伊東 潤
発売 講談社
発行年月日  2014年1月9日
定価  ¥1600E

 

峠越え (講談社文庫)

峠越え (講談社文庫)

 
峠越え

峠越え

 

 

 家康はいつの時点で本能寺の変を知ったのか、という興味深い問いかけがある。一説によると、家康は勃発前の「本能寺」を知っていたのではないか、光秀の謀叛には家康も一枚絡んでいたのではないか、とも。それはともかく、信長が本能寺の変に斃れなかったなら、天下人としての家康の出番はなく「江戸時代」もなかったに違いない。
 本書は「家康と本能寺の変」を史材とした歴史小説で、武田氏を滅ぼした直後の天正10年4月14日、東海道を使って帰国する信長を、家康が駿府城に迎え饗応するシーンに始まり、本能寺の変が勃発し、信長の死が確認された後の6月4日、自領三河へ帰着すべく「伊賀越え」して伊勢湾の洋上に浮かぶ家康までが描かれている。
 
 本書をひも解く前に、当時の時代背景を略述したい。

 天正10年(1582)3月11日、武田勝頼が天目山で自刃し、甲斐源氏の名族武田家は滅ぶ。武田氏を滅ぼしたのち、信長は今川氏の旧領駿河一国を家康に与える。5月、信長からの招請があり、家康は信長へのお礼を兼ねて、武田の遺臣穴山(あなやま)信(のぶ)君(ぎみ)(梅(ばい)雪(せつ))を伴って安土に伺候する。穴山信君は信玄の甥、勝頼の姉婿で、武田家親類衆筆頭の座にあったが、家康を通じて信長に内応し、勝頼を裏切って敗死させた人物である。5月19日から3日間にわたる安土での饗応の後、家康らは信長から京、奈良、堺の見物をすすめられる。家康らは堺で本能寺の変に遭遇する。家康は生涯に遭遇したどのケースとも違う危機に直面した。信長の横死により、いまや畿内の地は完全に無警察状態となり、行路は難渋をきわめた。とにもかくにも家康主従は伊賀越えの危難を乗り越え、三河へと帰路に着くが、家康と別行動をとった梅雪は途中で土民に襲われ殺害される。

 以上が史実であるが、作家はいかなる物語的構想のもとで史実に立ち向かうのか。コインの両面のように史実と物語的構想が不可分の時、適度な重みがある作品が生まれる。

 家康は6歳から19歳まで13年にわたる人質生活を余儀なくされた。駿府は家康にとって思い出の地である。堪忍自重し石橋をたたいて渡るような家康の生き方は長い人質生活がもたらした劣性コンプレックスから育まれたものと思えるが、本書の作家は凡庸の才しか持たぬ者の生き方を家康は今川氏の執政、軍事である太原(たいげん)雪(せっ)斎(さい)から教えられたと語りはじめている。

 山躑躅の咲き乱れる駿府城内の望嶽亭の庭で、勝頼の首を前にして得意の「敦盛」を披露する“天才”信長と対峙しながら、“凡才”家康が現実と回想を繰り返す————回想にふけりつつ、行きつ戻りつ、現実に引き戻される————という手法のなんと卓抜であることか。「人間50年化天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり……」。宿敵武田氏を滅ぼし、一つの得意の極みに達し舞い踊る信長を見つめながら、家康は何を思ったであろうか。「人間50年」と言われた時代である。敗者勝頼はともかく、家康を死線に這わせた信玄は53歳で逝去しているが、武田氏を滅ぼした眼の前の信長がよもや三カ月も経ないうちに、49年を一期として逝ってしまうとは家康には思いもつかないことであったに違いない。

 永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦い今川義元を破った信長は、翌々年の永禄5年1月、当時松平元康と名乗っていた三河岡崎城主の家康と同盟を結ぶ。信長の同盟者となって、家康の運は開けるのだが、回想シーンとしての「桶狭間」にも、新たな造形が織り込まれているのは小説としての興趣である。

 桶狭間の戦い時、19歳の青年武将であった家康は信長に内応すべく、「義元が6月2日牛の刻、桶狭間の漆山で中食を取る」との機密情報を織田方に伝えたと本書は物語る。桶狭間の内応がのちの同盟への伏線となっているのだ。

 織田徳川同盟は信長の死によって自然解消するまで、表面的には揺るがずに続いた。盟友盟邦として固く結ばれ、互いに親密で助け合って進んだことはこの時代としては珍しいとの見方もあるが、信長の前に命を投げ出して戦いに明け暮れた家康は同盟者としての義務を果たすべく奮戦しているのは事実である。

 信長との同盟は、しかし、家康の側からすれば、信長と手切れになってもおかしくない場面も少なからずあった。その最たるものが長篠の戦いの3年半後に突如起きた築山(つくやま)殿(どの)事件(じけん)[天正7年(1579) 家康38歳]である。家康はその正室の築山殿と嫡男の信康が武田家と内通しているという疑いを信長からかけられる。築山殿は今川義元の姪であり、信康の妻は信長の娘であった。信長に抗拒する実力を持たない時期の家康は泣く泣く糟糠の妻と最愛の息子を殺害せざるを得なかった。家康信康父子の短い会話が読む者を惹きつける。家康は生涯、信康の死を哀惜し家臣の前でも愚痴ったと伝わるが、本書で作家は無実の息子を差し出してまで己れの保身に走る家康の苦悶を描くとともに、信長の狙いが信康の命であること、信長はなんとしても信康を殺したかった、と断じている。   

 家康は信長の忠実な同盟者として振舞いながら、天下取りの野心を絶やすことがなかったと、家康の心中を忖度する見方もあるが、この時の家康は天下どころかいかにして生き残るかしか念頭になかったに違いない。苦悶する家康を描くことによって、信長との同盟の本質は家康にとって対等のものではなく、隷属を強いられたものに過ぎないものであるとしている。信長にとって家康は「今川家と武田家の西進を防ぐ壁」にすぎない存在であれば、武田家が滅んだ今、「己れの存在意義がなくなった」と家康が気づくのは自然である。

 とすれば、「家康の安土訪問」とは何であったか、作家の物語的構想のゆくつく先がおよそ想像がつこうというものである。

「武田家が滅んだことで、信長にとって家康は用済みとなった。それどころか織田家の天下のために、一転して邪魔者となった。そこで信長は家康を安土に呼び出して討ち取ることにした。」家康は安土へ行けば信長に殺される可能性があると身構える。また、家康の上方見物は安土最後の日に、突如、信長から半ば強要に近い形で提案されたと作家は物語る。

 5月21日、家康らは長谷川秀一の案内で京に入る。秀一は信長の近習、目付であるが、道案内に名を借りた監視役である。信長は最小の犠牲で最も煙たい武将の一人である家康を斃せるのだ。『信長公記』によれば、21日に入洛した家康一行が28日に堺へ行くまでの一週間、家康が何をしていたのか明らかではないが、ここで作家のイマジネーションが冴える。秀一から鞍馬行きをすすめられた家康は、梅雪が鞍馬行きを諾としたのに対し、危険を察知して断ったとしている。

 堺での饗応の後、本能寺の変を知った家康は「伊賀越え」の道を選び、別行動をとった梅雪は横死する。本書の展開は表面上、史実の通りだが、その内実はどうであったか。それは本書を読んでのお愉しみであるが、本能寺の変は信長が家康を排除すべく、光秀とともに仕組んだ狂言だった、とする途方もない奇想が盛り込まれているのみ記しておこう。なお作家には短編集『戦国鬼譚 惨』があり、その一篇「表裏者」の主人公は梅雪である。

 本書の書名は『峠越え』。家康の遺訓とされる「人の一生は重きを負うて遠き道をゆくがごとし」が連想されるが、家康生涯75年の中での大危難「伊賀越え」をふまえている。「東照大権現」と崇められる家康の生涯をふりかえれば、信長の最期、秀吉の最期、二人の盛衰をじっくり眺め、彼らを反面教師、他山の石として、堪えるだけの忍耐力と粘りで一歩一歩、堅実に緻密に先へ進んだ人生の成功者である家康が浮かび上がってくるであろう。しかし、神君ではない、若き日の家康はどうであったか。

 人生の大転機となった本能寺の変天正10年時、家康は41歳。その41歳の年の晩春から初夏にかけての、わずか50日余の日々が、この小説の時代(舞台)背景となっていることから明らかなように、作家は大成した神君家康ではなく、若き日の家康の素姿を描きたかったのである。
                 (平成26年3月9日  雨宮由希夫 記)