雨宮由希夫

書評『不抜(ぬかず)の剣』

書 名   『不抜(ぬかず)の剣』
著 者   植松三十里
発行所   H&I
発行年月日 2016年5月8日
定 価    ¥1800E

不抜の剣

不抜の剣

 


 植松三十里は史料を丹念に読み込み史実の裏にひそむ〈真実〉に迫る本格的歴史小説をものする数少ない女流作家である。

 第27回歴史文学賞を受賞した『桑港にて』〔文庫改題『咸臨丸、サンフランシスコにて』〕(2003年)以来、『黍の花ゆれる』〔文庫改題『西郷と愛加奈』〕(2005年)、『お龍』(2008年)、『群青 日本海軍の礎を築いた男』(2008年)、『北の五稜星』(2011年)、『黒鉄の志士たち』(2012年)、『志士の峠』(2015年)、『繭と絆 富岡製糸場ものがたり』(2015年)等々、一貫して幕末明治を舞台とした歴史小説を発表してきた。その植松が日本武道館発行の「月刊武道」に斎藤弥九郎(1798~1871)を主人公とした小説を連載していると聞いて、いかに弥九郎と切り結び、この度はどのような幕末明治をみせてくれるのだろうかと興味を持ったものだ。

 幕末江戸期は史上空前の剣術繁栄期であった。世情不安から剣術が盛んになり、江戸の道場はどこも盛況であった。斎藤弥九郎の開設した神道無念流練兵館桃井春蔵鏡新明智流士学館千葉周作北辰一刀流玄武館と並んで幕末江戸三大道場と呼ばれたが、練兵館は西洋砲術を教えることで人気を博したという。

 斎藤弥九郎についての小説はエピソードをあつめた史伝めいたものが直木三十五菊池寛・本山荻舟、童門冬二戸部新十郎らによって書かれているが、本書『不抜(ぬかず)の剣』は斎藤弥九郎の生涯を描いた本邦初めての長編歴史小説である。弥九郎の生い立ちから晩年に至るまでがきめ細やかに描きつくされている。

 弥九郎は能登半島の付け根の越中国射水郡仏生寺村(現在の富山県氷見市仏生寺)の郷士斎藤新助の長男として生まれている。文化12年(1812)、一分銀一枚を懐中に入れ15歳で単身江戸に出た。その折のみじめな体験から「人としての誇りを護るために、剣術を身に着けた」と後年述懐しているが、そもそもは学者への志を抱いての出奔であって、剣士を目指したものではなかったことが知れる。

 旗本能勢氏に奉公しながら、剣術を神田裏猿楽町の神道無念流岡田十松の撃剣館に学んだ。撃剣館で、師・岡田十松に出合い、その門下生の江川太郎左衛門英龍、藤田東湖渡辺崋山らと相知り親交を結んだことが弥九郎の人生を決めた。

 英龍、東湖、崋山に引き続き、大塩平八郎徳川斉昭芹沢鴨高島秋帆鳥居耀蔵吉田松陰桂小五郎、中島三郎助といった幕末のキーマンが続々と登場し、しかも彼らのすべてが斎藤弥九郎と深く関わった人物であることを知るに及び、読者は驚くことになろう。剣豪斎藤弥九郎を通じて大塩平八郎の乱から幕府崩壊に至る幕末の混乱がいとも鮮やかに絵解きできるからである。

 品川沖お台場の建設や伊豆韮山反射炉などの築造で有名な江川太郎左衛門英龍は海外事情や海防問題に深い洞察を持っていた江戸幕府の伊豆韮山世襲代官であるが、弥九郎にとって江川は3歳年下の剣術の同門であり、盟友であり、主従であった。

 文政9年(1826)、29歳で独立し、江川の援助で九段坂下俎橋近くに練兵館を開く。江川はつねに弥九郎に対する経済的援助を惜しまず、片や、弥九郎は江川の良き補佐役・相談役・懐刀 を勤め、江川を支えることが自分に与えられた役目であるとして、”脇役”に徹して行動している。

 天保8年(1837)、大塩平八郎の乱がおこると、江川の命により、乱の真相を探るため、大坂へ赴き、江戸へ戻るや、江川とともに、刀剣行商人に扮して江川の領地である甲斐国の状況を見て回っている。

 蛮社の獄(渡辺崋山高野長英らへの弾圧事件)でも洋式兵法の先覚者・高島秋帆逮捕の際にも、保守的で天性の酷吏というべき鳥居耀蔵に敵視され辛い立場に立たされた江川のために奔走している。

 江川と並び弥九郎に思想的に多大な影響を与えた人物は水戸藩士の藤田東湖である。弥九郎は後期水戸学の大成者の一人である藤田東湖を深く敬愛し、その縁で水戸藩徳川斉昭から下げ渡された会澤正志斎の『新論』に出会う。尊王攘夷理論を確立したこの書物を読み、幕藩体制を解体し、天皇中心の中央集権国家に作り直そうという理論を、幕臣江川家の家臣である弥九郎は「とてつもない説だ」と共鳴し、若い吉田松陰桂小五郎に期待を抱く。水戸学イデオロギーの長州への流入は一つには弥九郎の練兵館を通じたのである。

 英龍、東湖とともに弥九郎の生涯に欠かせないもう一人の人物、桂小五郎木戸孝允)の造形も読みどころである。江戸の三大道場はまた抜群の門脈を誇ったが、長州藩藩士の多くを練兵館に送って学ばせた。桂小五郎練兵館の塾頭を務めるほどの剣客であった。

「平和な時にも乱に備えよ」とするのが神道無念流の心得である。「武」は「戈を止める」と書く。戈を止めるのは楯、ならば武の本質は楯であるとする。今日でいう専守防衛の考えである。討幕運動で、白刃の下を幾度となく掻い潜りながら仲間を見捨てて逃げた桂には「逃げの小五郎」の不名誉なあだ名が伝わるが、実は師弥九郎の教えを頑なに守り抜いたこそのあだ名だったと知る。

 嘉永6年(1853)6月、浦賀に黒船来航。急遽江戸湾内の防備を固めるべく、台場築造の場所を選定する必要に迫られ、幕命によって江川は江戸湾岸を巡視。このとき、弥九郎も同行している。桂小五郎が弥九郎の下僕に扮して、幕府による台場の工事現場を見て歩くのはこの時のことである。

 明治元年(1868)、明治政府に出仕した弥九郎は翌年、造幣寮(後の造幣局)の権判事となる。大塩平八郎の屋敷跡が大阪造幣局となった。大塩平八郎と弥九郎の関わりを知っている桂が弥九郎を招聘したのであった。かくして、”脇役”弥九郎を介し、桂小五郎大塩平八郎江川太郎左衛門がつながっている。なんという奇観であろうか。


 本作は「剣豪小説」とはいえ、剣の修行や剣の道に命を懸ける剣術家の描写がない。郷士出身で剣技という特殊技能で世に出た点では近藤勇土方歳三らと重なる部分もあるが、そもそも、作家はあの時代状況下、農家の惣領息子が農家を離れ、江戸に出ることの意味を弥九郎と父新助の確執、母お磯の愛を通じて物語ることからはじめている。弥九郎を陰から支え続けた妻小岩との夫婦愛も胸を打つ。練兵館の主として剣術を教えるかたわら、時代の改革と進歩に貢献した人々と交流するも、自ら表舞台に立つ事なく、一介の剣客として一人の人間として異色の人生を歩んだ斎藤弥九郎の〈真実〉が鮮明に浮かび上がる力作である。
 (平成28年7月1日  雨宮由希夫 記)