書名『義貞の首』
著者 安部龍太郎
発売 集英社
発行年月日 2015年10月30日
定価 ¥2000E
義貞の旗| 安部 龍太郎| 小説/戯曲|BOOKNAVI|集英社
さまざまなる義貞がいる。今東光は「義貞は無類の忠臣のように言われているが、根が坂東の片田舎育ちで、源氏の血を引いたという名門の誇りだけが自慢の種。戦も下手なら政治力もない。勾当内侍という公卿の美女に惚れちゃって戦機を喪った女好き」(『毒舌日本史』文藝春秋 1972年刊)とし、義貞をこよなく愛した水上勉は「義貞の行く道に二流の人の翳がつきまとう」(『流旅の人々』実業之日本社 1977年刊)といった。
『道誉と正成』(集英社 2009年刊)以来、久方ぶりの<南北朝もの>歴史小説である本書を著すにおいて、作家安部龍太郎は新田義貞を主人公にしている。
戦前には、足利尊氏は逆賊、義貞は楠木正成と同様、忠臣の見本のように言われたが、今日に至るも、義貞の評価は低過ぎたといえるだろう。
真実の姿に迫ることが歴史小説の使命の一つである。果たして、作家がどのような義貞像を描くのか、興味を持って本書をひもといた。
義貞の全生涯の行動の中に、義貞という人間の再検討を行う必要があろう。
作家は先ず義貞と大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)との出会いが義貞の人生のターニングポイントであるとしている。義貞32歳が鎌倉幕府の一御家人として、元弘元年(1331)、千早城に楠木勢を攻めた際に、大塔宮と接触したことは史実であるが、それに加えて本書では、「義貞は大塔宮と出合い、万民のために地上の幸福を実現するという宮の理想に心酔し、すべてを賭けて挙兵した」とする。
元弘3年(1333)5月8日、義貞は生品神社で討幕の旗を掲げ、東国の反幕府勢力を束ねて鎌倉幕府を滅ぼす。「鎌倉を攻めて北条氏を滅ぼした勲功は尊氏よりはるかに上である」とするのが作家の審判だが、面妖なことは、鎌倉を目指しての進軍中に、尊氏の嫡子でわずか4歳に過ぎない千寿王(義詮)をいだく足利勢2百余騎が合流を申し立ててくることであった。これを許すか許さないか、きわめて重要な局面なのだが、本書の義貞は実に鷹揚で何のためらいもなく、受け入れてしまう。後に尊氏は、鎌倉幕府を滅ぼしたのは義貞ではなく、むしろわが子の義詮なり、と言い出す。鎌倉幕府を滅ぼすに、新田軍単独で、あるいは新田・足利連合軍で、では、おのずと意味が異なる。
大塔宮護良親王は父後醍醐天皇の隠岐配流中、倒幕運動の旗頭として大きく貢献しながら、建武新政府成立後、尊氏との抗争に敗れ、皇位簒奪を企てた謀反の疑いで逮捕され、中先代の乱の際、敗走する足利直義の命令により鎌倉で謀殺される。
宮の死を義貞がいかに受け止めていたか、この局面もその後の義貞の生き様を見るに重要なシーンであるが、本書では、「宮のもと新しい世を築けるものと期待していた義貞は体から気力の芯棒が抜ける」とあるのみである。
あまりにも性急な王政復古の政策を推進する後醍醐天皇の建武の新政は武士の期待を大きく裏切るものだった。守護や地頭として諸国の統治にあたってきた武士たちの不満が蔓延してくる。
天皇親政の世を目指す後醍醐天皇の理想は「万民のために地上の幸福を実現することではなく、帝がこの国の主だということを万民の脳裏に刻み込むこと」にあり、義貞は「そのような帝の殉教にも似たお覚悟を深く理解している」。
大塔宮亡き後も、大塔宮とは理想の異なる後醍醐天皇の側に立つ身の義貞は、新たな武家政権の成立を望む武士たちが尊氏の下に集まっていくという時代の流れをどう見ていたのか。この辺の状況は作家にもっと踏み込んでほしいところであった。そもそも北条氏専制の閉塞した政治状況を打倒すべく鎌倉を目指した東国武士たちの怒涛の進軍は、武家政権を否定するための進軍ではなかった。それは義貞自身がよく承知していたことではなかったか。あるいは、義貞に、幕府を開いて武家の棟梁となる望みはなかったのかと問うこともできよう。
足利、新田両家の始祖は八幡太郎源義家の孫で、新田家の方が源氏の嫡流に近い。しかも領地は渡良瀬川を挟んで隣り合っている。尊氏と義貞は絵に描いたような好敵手だったのである。本書でも、義貞が源氏の嫡流を声高く標榜する場面が数多くあるが、しかし、尊氏の幕府開設そのものに対する義貞の対抗心のような感情はくみ取れない。
源実朝が暗殺され源家将軍が三代で滅びてからは、足利家が清和源氏の嫡流として重んじられたという。しかも足利家は歴代、北条家と姻戚関係にあった。官位も所領も大差あり、財力では50対1ほどの開きがあったとする説もある。幕府滅亡時、尊氏が従五位下の治部大輔であるに対し、義貞は無位無官の土豪に過ぎなかったのは事実で、本書ではそうした義貞を表わすのに、べらんめえ調の言葉遣いを常としている。尊氏に対しても後醍醐に対しても、義貞はべらんめえ調である。誰も描かなかった義貞がここにはいるとはいえる。
新田は源氏の棟梁を名乗るにしては大身にあらずとする解釈があるが、こうした解釈は尊氏が室町幕府を開いた結末を見てのことであり、建武の新政下、尊氏と義貞が拮抗していた当時を映すものではないであろう。
建武2年(1335)7月、尊氏は中先代の乱を平定して、鎌倉を奪還するや、鎌倉に居座り、同年10月、後醍醐との決別を鮮明にする。ついに建武の新政は崩壊し、南北朝内乱がはじまるのである。
物語の後半で、作家は楠木正成を借りて、次のように語る。
「正成は知っていた。武士の期待が足利氏の上にあることを。尊氏を将軍に任じて幕府を開かせる以外に、いまや政権を守る手立てはない。その結果として、後醍醐天皇と尊氏の争いは尊氏の勝利となるであろうことを」。
いったん、義貞に敗れ、九州に落ち延びた尊氏が瞬く間に九州を手中に収め東上してくる。それは当時の博多が元銭の輸入窓口なので博多港を押さえることにより尊氏は莫大な資金を手中に収めたからであるとする作家の持論が織り込まれている。前作の『道誉と正成』と同様の歴史認識である。
湊川の戦い直前の評定で、正成が「尊氏をとり、義貞を捨てよ」と言上したのも史実であろう。尊氏との和議を計る以外に窮地を乗り切る方法はないと奏上して正成は死出の戦に赴くのだが、本書では、正成の真意を探るべく、義貞が正成邸を訪れる場面がある。あまりにも愚直な義貞がここにはいる。
帝が独断で尊氏と講和した時、義貞は比叡山から北陸を目指し、越前金ケ崎城を拠点とする。追われるように都落ちした義貞だが、苦境にあっても、その楽観さはいささかも変わらない。
暦応元年(1338)閏7月2日、義貞は越前藤島(福井市藤島)の燈明寺畷で泥田に馬の足をとられて落馬、流れ矢を額に受けて自害憤死す。『太平記』は義貞の死を“犬死”と笑うが、稲村ケ崎の断崖上から、愛蔵の太刀を海に献じて進軍し、鎌倉幕府を滅亡させ、尊氏と勢力を真っ二つに分けて、建武の動乱に名を馳せた勇将とも思えない敢え無い最期を遂げた。挙兵からわずかに5年。南朝一筋に、転戦に次ぐ転戦の末の最期であった。
義貞の死の翌年には後醍醐天皇が吉野の行宮で亡くなる。
類稀な動乱の世には、人生の浮き沈みによる哀歓が大きく生み出されるものである。ある者は理想に、あるものは名誉欲に、物欲にと、さまざまな欲望に命を懸けた激しい争いがあり、人間性を丸裸にしてみせつける。尊氏が征夷大将軍になるのは、義貞の死の翌月である。尊氏は義貞の死を踏まえて初めて源氏の棟梁を名乗り得たのである。この事実は義貞にも源氏の棟梁たりえる資格があったことを証明している。まさに、この世は、野望と欲に囚われた者が勝つということか。
義貞の妻の伯父・安藤聖秀。この人物は滅びゆく鎌倉幕府に殉じた歴史上の人物だが、物語の前半で、作家は聖秀に「本性のままに真っ直ぐに生きて、美しい生きざまを世に示せ」と吐かせている。義貞の生き方はまさに聖秀の最期の言葉通りであった。
『義貞の旗』は質実剛健さを保持し真面目だけが取り柄の、昔ながらの東国武士が、旗を掲げて上州の田舎から中央へ攻め上っていく物語であった。
(平成28年1月27日 雨宮由希夫 記)