頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー51
「竹林の七賢」と聞いて、どのようなイメージを持ちますか?
わたしが初めて知ったのは、まだ10代前半の頃でした。鳥山喜一の『黄河の水』を読んだときです。その中で取り上げられていた「竹林の七賢」に大きな憧れを抱きました。
天まで届くような孟宗竹の林の中で、茣蓙を敷き、琴をつま弾き、笛を吹き、酒を飲んでは呵々大笑し、時に清談を交わす、そんな隠者たちを想像しました。同時に彼らが憧れた老荘思想(神仙思想)にも強く惹かれました。年を取ったらそんな生き方をしたいものだと思ったものです。
ちなみに、清談とは、世俗的ではない芸術、学問、趣味などの会話のことです。
しかしながら、年は取りましたが、都会の生活に慣れきったわたしにそんな生活は無理だと早々に諦めました。
ならば、気持ちだけでもと思って本書を読んだのですが、改めて竹林の七賢に大きな誤解を抱いていたことを知りました。
竹林の七賢とは、以下の7人のことです。簡単な紹介も付します。
山濤(さんとう、字は巨源)(205年~283年)
魏の司馬昭(西晋の武帝の父)に仕え吏部尚書等を歴任し司徒。七賢中最も年長。
阮籍(げんせき、字は嗣宗)(210年~263年)
歩兵校尉。同じく司馬昭に仕え「至慎(もっとも慎み深い)」と評された。
嵆康(けいこう、字は叔夜)(223年~262年)
中散大夫。魏の曹氏の一族。後に讒言を受けて刑死。
劉伶(りゅうれい、字は伯倫)(221年~300年)
官位は伝わっていない。身長が低く(140cm)、裸で居ることが多かったという。
阮咸(げんかん、字は仲容)(生没年不詳)
阮籍の甥、散騎侍郎から後に始平太守に左遷された。七賢中2番目に若かったらしい。
向秀(しょうしゅう、字は子期)(生没年不詳)
嵆康刑死後に出仕、郡の上計吏から散騎侍郎・黄門侍郎・散騎常侍などを歴任。
王戎(おうじゅう、字は濬沖)(234年~305年)
徐州琅邪郡の名門で、吏部黄門から河東・荊州刺史、中書令を経て最後は司徒となった。七賢中最も若い。
わたしは竹林の七賢をずっと隠者とばかり思っていましたが、本書を読んでそれが間違いだったとわかりました。
上記の略歴を見るとお分かりのように、7人中官職がないのは劉伶のみのようです。他の6人は差こそありますが、朝廷の役人で有り、うち山濤と王戎は、官職の最高位である三公の一つ司徒まで務めているのです。
いずれも名門又は帝室の親族に連なり、豊富な資産と類い希な能力を有し、有力な官職への推挙を受けるなど、なるほど竹林で浴びるほど酒を飲み清談を交わすには、それなりの財産が必要だったのだと改めて思い知らされました。
彼らの生き様は、時の有力者ゆえの行動だったのでしょう。私ごとき小人の及ぶところではなかったようです。
生没年から分かるように彼らの生きた時代は、魏・呉・蜀の三国時代から晋(西晋)の時代にかけてです。いずれも魏から晋に仕えた人たちです。呉や職の人はいません。
魏という国は、曹操の子曹丕が後漢の献帝から強引に譲位させて開いた国ですが、その魏も諸葛孔明と争った司馬懿の子孫にやがて乗っ取られることとなります。
当然、そこには陰惨な政争があったことでしょう。現に七賢の一人である嵆康は、魏の曹氏一族に面なっていました。司馬氏派と曹氏派の政争の犠牲といえなくもないようです。
にもかかわらず、そんな嵆康とも親交を結び、魏・晋の2王朝に仕えて三公の一つ司徒まで務めた山濤と王戎は見事というほかありません。
いつの世も政争に明け暮れる朝廷ですが、そうした中にあって、こうした七賢の処世、生き方が後の知識人の憧れに繋がったのではないかと思えてなりません。
それが「竹林の七賢」というイメージに集約されたのではないでしょうか。
本作でも紹介されていますが、『世説新語』という中国の古典があります。文言小説に分類されるようです。後巻末から東晋の時代にかけての有名人の逸話を集めたものです。
わたしも全部は読んでいないのですが、三国時代に興味を持ち、そろそろ『三国志』に厭きてきたなあという方にお勧めの本だと思います。長いのは東洋文庫版の5冊ですが、明治書院から新書版も出ています。