頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第42回「征夷大将軍になり損ねた男たち ―トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史」(ウェッジ)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー42

征夷大将軍になり損ねた男たちートップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史 「征夷大将軍になり損ねた男たち ―トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史」
(二木謙一、ウェッジ)

 日本の中世、近世は武士の時代といってよいでしょう。そのトップは、征夷大将軍です。
 征夷大将軍は、源頼朝以来幕府を開き、実質的に日本の政治権力のトップでもありました。
 幕府を開いた地から鎌倉、室町、江戸の3つの幕府が存在しますが、本書は、その時代に征夷大将軍になり損ねた男たちを4章に分けて取り上げ、紹介しています。副題にあるようにトップの座を逃した人物の教訓に学ぼうというわけです。
 第1章は、平安末期から鎌倉時代の人物15人が紹介されています。うち10人が源氏ですが、源氏将軍が3代で絶えたことからもやむを得ないことと思います。
 その背景に源頼家系の流れを根絶したいという北条氏の陰謀があり、やがて権力奪取への野心から、頼朝や頼家の子供たちが犠牲になり、非業の最期を遂げることとなります。
 ただ一人、頼朝の庶子である「貞曉」は、嫉妬深い北条政子から逃れ、仁和寺の隆曉の弟子となります。後に高野山へ入り、寛喜3年46歳で天寿を全うしたとのことです。
 晩年には、北条政子も帰依したといい、源氏の係累では珍しい人生だったようです。
 もう一人、後鳥羽上皇の第5皇子頼仁親王ですが、鎌倉幕府から4代将軍に望まれますが、父後鳥羽上皇の許しが出ず、将軍になることはありませんでした。
 後、承久の乱で後鳥羽上皇に加担し、敗れて備前国児島に流されて児島宮と呼ばれたそうです。南北朝時代の児島高徳は、この宮の子孫であるという伝承があるそうです。思わず、歴史の面白さに唸ってしまいました。
 ちなみに頼仁親王は、「よりひとしんのう」と読むようです。
 第2章は、室町・戦国時代の人物11人が紹介されています。このうち足利氏の親族が7人です。織田信長と豊臣秀吉も取り上げられていますが、信長は「征夷大将軍になり損ねた男」というよりも「征夷大将軍にならない男」のイメージがあります。
 また、その信長を本能寺の変で殺した明智光秀も取り上げられていません。征夷大将軍になり損ねた男信長、いっときトップになりながらも紹介もされない二人のそれぞれの理由は、ぜひ本書で・・・・。
 第3章は、江戸時代の人物14人が紹介されています。そのうち、徳川家の血をひく人物は12人です。残りの2人は伊達政宗と有栖川宮幸仁親王です。
 12人のうち興味を引かれるのは、やはり徳川宗春でしょうか。徳川宗春と吉宗との争いはどっちもどっちの感が否めませんが、果たして宗春は、征夷大将軍になり損ねたのでしょうか。
 第4章は、幕末維新の人物が4人紹介されています。以外なのは、徳川15代の征夷大将軍となった徳川慶喜が取り上げられていることです。征夷大将軍にはなりましたが、すぐに大政奉還せざるを得なかったため、実質的なトップに立てなかったからでしょうか。
 それぞれ、数頁の紹介ですので、興味が湧いたら他の本で深掘りしていけば、さらに歴史が面白くなりそうです。

 

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