頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー22
「足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏」
(谷口雄太、吉川弘文館(歴史文化ライブラリー559)
「御三家」といって、郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎を思い浮かべる方は、私と同世代です。橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦を思い浮かべる方は、もう少し上の世代ですね。
その元となった「御三家」とはいうまでもなく「徳川御三家」のことです。尾州・紀州・水戸の徳川氏です。江戸の将軍家の継嗣が絶えたら、次の将軍を輩出できる家です。(ただし、水戸家はその資格が無く、ために「副将軍」を名乗ったともいわれています。)
さて、本書は徳川時代に先立つ足利時代の御三家について書かれたものです。「足利御三家」とでもいうのでしょうか。
「えっ! そんなこと聞いたことが無い」
と、おっしゃる方も多いと思いますが、そもそも徳川家が、足利家の儀礼を継承したことは有名なことです。そのために足利氏につながる氏族を「高家」として優遇し、儀礼典範を扱わせたのです。
高家、そして吉良家というと、本書でも言及していますが、忠臣蔵で有名な吉良上野介をすぐに思い出すことでしょう。その吉良上野介は、本書で紹介する吉良家の末裔なのです。
足利時代は、三管領家(斯波・細川・畠山家)、四職家(一色・山名・土岐・赤松家)が有名ですが、いずれも一国以上の守護職を持ち、室町幕府の政治、軍事に深く関わった大名家です。しかしながら、足利時代の御三家(吉良・石橋・渋川氏)は、初期を除いてあまり政治や軍事に関わっていません。それゆえに、家柄として三管領家や四職家の上位に位置づけられたともいえます。
本書はそうした足利時代の御三家の成立等について述べたものです。その流れに徳川御三家もあるといって良いかもしれません。
武士は発生当時から土地と切っても切れない縁があり、土地を通じて家を興し、発展してきました。始めは父から子へ土地を譲り、子はその土地を名字の地として守り、さらに子に譲っていきました。
しかしながら、時代を経るに従って分家と本家は疎遠になります。源氏の惣領源頼朝に常陸源氏の佐竹氏や甲斐源氏の武田氏が当初従わなかったように。
まして、征夷大将軍の源家が三代で絶えると、源氏という紐帯も切れて理念的なものにならざるをえません。
北条政権下で北条氏と血縁の足利義氏(母が北条氏、自身も北条氏から室を迎える)は、宿老として力を振るい、源氏の惣領家と目されました。そのため、新田氏や山名氏なども鎌倉時代を通じて足利一門とみなされることとなります。(新田氏が足利氏と並ぶ源氏の惣領家と目されるのは、建武政権のイメージ戦略の結果です。足利尊氏の牽制が目的だったのです。太平記の影響も大きいと思われます。)
義氏の後は、子の泰氏(母が北条氏)が継ぎますが、以降兄弟は分家せず、足利の姓を残ししたまま一族として行動します。その泰氏の兄弟が、後の吉良氏です。
泰氏の後は頼氏が継ぎます。同じく母が北条氏の出だったため、三男ですが、嫡子とされました。泰氏の強打と同じく兄二人は、分家しません。後の石橋氏、斯波氏、渋川氏の祖となります。(義氏の兄二人は、それぞれ畠山氏、桃井氏を名乗って分家しています。)
そのため、吉良・石橋・渋川氏は、足利本家との血の近さから家格が高いとされ「御三家」として敬われることとなったのです。
さて、そこで問題となるのは斯波氏です。南北朝時代、足利高経(斯波氏は名乗っていません)は、越前国を舞台に、新田義貞を討ち取るなど大きな功績をあげましたが、(三管領家の一つとなり)御三家には加われませんでした。なぜでしょう?
その理由は、本書をお読みいただくとして、私が興味をひかれたのは、今までは分家して名字を名乗りながら、
「なぜ鎌倉時代後半になると分家せず一家として行動することになったのか?」
ということです。
足利氏と似たような事例は、他氏でも確認されているようで、南北朝時代に兄弟あるいは近しい一家の内で激しい惣領争いが起きた原因ではないかと思われます。
逆に、その骨肉の争いを制した氏族が勝ち上がって、室町時代という次のステージに進んでいったのかもしれません。
※ 足利御三家に関する小説は、残念ながら見当たりませんでした。関連する書籍としては、やはり『太平記』『難太平記』のみでしょうか。