『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか 』
1.はじめに
明智光秀は、本年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公です。それもあってか、本屋に行くと明智光秀や本能寺の変に関する著書がまとめてあります。
私も一冊は読んでみようと思って手にしたのが、本作でした。筆者はもともと日本中世史が専攻の方です。その斬新な切り口や分かり易い叙述、史料の紹介等もあって選んだのですが、それ以上にサブタイトルの「牢人医師はなぜ謀反人となったか」に惹かれたことはいうまでもありません。
本書は、明智光秀の牢人時代から足利義昭の足軽衆を経て、織田信長に仕え、やがて重臣として出世街道を歩きながらも、なぜ謀反して織田信長を本能寺で殺すこととなったのか、を史料に基づき具体的に考察していきます。
ちなみに、主人を持たない武士=「ろうにん」を、だいたい中世から戦国時代までは「牢人」、近世は「浪人」と表記します。
2.無名の青年時代=牢人医師の時代
明智光秀は本当に医師だったのでしょうか。仮に医師だったとすれば、どのような医師だったのでしょうか。当時は現代と違って、医大を出て国家資格を取得して医師になるわけではありません。
まず筆者は、医者といえば官医(朝廷に医術を持って仕える人)か僧医の時代にあって、16世紀を日本医学史上の転換点と捉えます。その根拠を『医書大全』という医学書が、堺の商人の手で刊行されたことをあげています。大永8年(1528)のことでした。これは、民間医の活躍が、正確な医学情報を欲したという背景があったというのです。(「序章」)
要するに、官医でもなく僧医でもない、第三の医者=民間医の出現というわけです。ちなみに大永8年は、明智光秀の生まれた年という説もあるようです。
明智光秀は、美濃国土岐氏の一族で、若い頃十兵衛尉と名乗り越前国に居たことはよく知られています。そこで光秀は何をしていたのでしょうか。筆者は、史料に拠りながら、越前国長崎称念寺の門前で10年ほど牢人暮らしをしていたといいます。そこで光秀は医師をしていたというのです。ただし、牢人ですから医学的な知識を持っていて地域の人々の役に立っていた、というのが実態のようです。とはいいながらも、それにより生計を立てていたこと、当時は民間医が台頭しているとはいっても、高度な知識を要する医師は、まだまだ農村から養成できる時代ではなかったこと、そのため知識のある牢人(武士階級)に頼らざるを得ない時代であったことから、光秀を「医師」であったとしています。(第一部第一章・第二章)
要するに不遇な牢人時代に自ら得た知識を活用して生計を立てていたということでしょう。まだ、医師という職業が一般的な時代ではない頃ですから、「医師」と断定しても妥当な説だと思います。
3.世に出る=足利義昭の足軽衆を振り出しに
しかしながら、光秀はそのまま牢人医師では終わりませんでした。光秀は足利義昭に従うこととなります。義昭は永禄11年4月に越前一乗谷で元服しますが、その頃行われた家臣団の整備の際足軽衆として採用されます。それは、永禄8年八月頃に義昭方として対三好氏との戦いに参加したからだというのです。(同第一章)
牢人医師が、なぜ義昭方となって対三好との戦いに参加したのか、そこのところはよく分かりません。しかしながら、当時の若者にありがちな「手柄を立てて一国一城の主人に」という功名心がなかったとは言えないでしょう。
そのうえ、朝倉義景でもなく朝倉氏の重臣の誰かでもなく、将軍位を目指す足利義昭の家臣となったことが、やはり明智光秀という人物の「志」が小さくなかったことを示しているように思われてなりません。
その後の光秀の活躍と出世は知られたとおりですが、そこにも筆者の史料に基づく興味ある展開があるのですが省略します。ぜひ本書をお手に取って……。
4.本能寺の変
そして気になる本能寺の変についてです。筆者は光秀が信長に背いた理由をどう見ているのでしょうか。
まず、第一にあげられているのは、御妻木殿の死です。天正9年8月のことです。本能寺の変が天正10年6月のことですから、およそ10ヶ月ほど前のことになります。御妻木殿とは、光秀の妹で信長の側室になっていた女性です。私は本書で始めて知りました。私見ですが、光秀の妻が妻木氏の女ですから、もしかしたら義妹かもしれません。
信長は専制的な側面があったことはよく知られていますが、その指示はけっこうアバウトだったようです。方針だけ示して後は任せるというスタイルだったのでしょう。
しかしながら、その結果が意に沿わなかったり、失敗はゆるされません。そういう人物の側にその意を知る人物が居ると居ないとでは、仕える側の気苦労にも大きな差が出ることでしょう。信長晩年の光秀との確執も、御妻木殿を亡くして信長の真意を知ることができなくなったことが重なってのことなのかもしれません。(第三部第十一章)
次に信長の家中を現代の企業に例えた場合、かなりのブラックだったということです。例えば、本能寺の変の天正10年は、2月9日に信濃出陣を命じられ、3月5日に信濃に向けて出立しています。武田氏追討のためですが、3月11日に武田氏は滅亡し、4月7日に帰国したようです。軍団を率いての移動ですから、移動だけでも大変です。4月23日には、丹後の細川藤孝への使者を命じられ、5月14日には徳川家康の饗応を命じられています。15日から17日には饗応にあたり、26日には中国出陣のために坂本から亀山に移動しています。かなりの酷使と思われます。(同第十一章)
光秀はすでに重役クラスですが、部下に丸投げというわけにはいきません。無能という烙印を押されれば、佐久間信盛父子のように追放(現代でいえば解雇)処分が待っているのです。
さらに、過酷な統治レースの実態(同第十章)、信長の一族優遇策への政策転換があげられています。(同第十一章)
「要は部将たちを前線に立たせて酷使する一方で、その内側にある整備の済んだ領地は一族に与えていたわけである。信長側室となっていた妹を亡くした光秀は、信長から一族に準ずる扱いも期待できなくなっており、このような状況は間違いなく彼に不満を抱かせただろう。」(189ページ)
こうして本能寺の変が起こるわけですが、いずれにしろ本能寺に宿泊中の信長の供回りは少数であり、有力武将は京の周辺にいません。信長を倒して天下取りを狙うならこの機を逃す手はないでしょう。
5.天下を取りこぼした人物
越前牢人中、朝倉家でもなく朝倉家重臣でもなく、足利義昭に仕官した光秀は、現代に例えれば、名門企業でもなく、その子会社でもなく、伝統があるとはいえ一度は傾いてしまった企業に再就職したようなものです。確かに土岐家の末端に連なる人物に名門企業や子会社の門は狭かったのかも知れませんし、そもそも門が開いていたかも疑問です。
しかしながら、3.で書いたように、光秀は敢えてその傾いた伝統企業に就職したのではないでしょうか。自らの力で再興させる気概も持って……。
そんな男であるからこそ、少数の供回りで本能寺に宿泊する信長と信忠を倒せば、天下を取れると判断し、本能寺に信長を襲ったのではないかと思うのです。
チャンスがあれば、確実にモノにする。その後は、そのことを成就してから考える。それこそが戦国に生きる男ではないでしょうか。
古来、謀叛が成就した例しは希少です(足利幕府こそ尊氏が、後醍醐帝に謀叛して成功した希な例です)が、結果を気にしてチャンスを逃すよりも、この光秀の行動こそずっと男らしい生き様のように私には思えるのですが、みなさんは如何でしょうか。
最後に筆者は、光秀を「天下を取りこぼした人物」と表現し、中世的身分の壁に直面し、それを越えようとしたのが本能寺の変であったとし、さらに中世的身分制度を換骨奪胎して乗り越えていった豊臣秀吉とを比較しています。(「終章」)
この比較は、やや難しいように思われます、
(補足)
主君に弓引く謀反人が、公共放送たるNHK大河ドラマの主人公となる。これも時代の変化なのでしょうか、変化した時代の求めなのでしょうか、考えれば興味深いテーマでもあります。N国党の存在とともに……。